第百八話 小里の戦いの後始末
大変お待たせしました。
やっと戦が終わり後始末です。
この後、本戦たる伊達、岩城VS佐竹、北條の戦いが始まります。
永禄元(1558)年八月十四日 未の刻(15時)
■常陸国久慈郡小里城 大藤秀信
「お初にお目にかかります。拙者今宮摂津守永義と申します。この度の援軍真に忝く、拙者を含め家臣一同皆感謝しております」
目に前の老年の偉丈夫が今宮殿か、やはり佐竹義昭殿の伯父だからかよく似ておられるが、とても齢七十近いとは思えぬ。まるで駿河守様(幻庵)を見ているようだ。聞けば御息女勝姫殿は未だ十七歳とか正に駿河守様同様に、老いてなお盛んで有るらしい、本当にソックリだな。
「大藤式部丞秀信と申します。主君北條左中将より、よしなにと承っております」
見る限り、今宮殿を含めて我らに嫌悪感を持っている者はいないようだ。皆が皆、目礼してくれている。
以前小田のことで佐竹殿と険悪な関係になった事も有ったが、直接戦わなかった事が今回の事に繋がっているのだろう。何と言っても、船尾兵衛尉(隆直)殿の旧領還付を岩城方に談判したのが御本城様と佐竹殿なのだから、本来当家と佐竹家は争うべきでは無いのだ。
その結果が、今回の盟約であり、佐竹殿の援軍に御本城様御自らお出になる事に繋がったのだ。これにより太田でもそうであったが、我らに対する佐竹家の感情は悪くなくなるであろう。
何と言っても林様が佐竹の御曹司と婚姻為さる事になり、御曹司の後見として御本城様が南で伊達勢と対峙しているのだ。我らも後方から伊達勢を突くべく英気を養わねばならぬ。
それにしても、典厩殿には頭が下がる思いだ。典厩殿は御本城様の婿で駿河守様の愛弟子であられるお方、俺のような根来出身の余所者と比べ、遙かに上の身分であるから、本来で有ればこの別働隊の指揮官は典厩殿に決まるはずで有った。
しかし実戦経験の有無から自ら儂の下に付くことを進言してくれたのだから、何処ぞのどら息子であれば、自らの力量を測れずに矜持だけで指揮を執ろうとするであろうに、それをせずに典厩殿は鉄炮衆の指揮を率先してくれたのだから。
今の挨拶とてそうで、本来なら立場が遙かに上の典厩殿が前に出るのが普通でありながら、俺に譲ってくれた。此も並みの人物では出来ない事だ。その典厩殿は今まさに戦場掃除の真っ最中だ。さて俺は掃除が終わるまでに俺の仕事をしなければ、さて先ずは今までの経緯と先ほど風魔衆が持ち帰った御屋形様と伊達勢との対峙の情報を説明するのが先だな。その後で典厩殿、松田殿を交えて今宮殿との会談だ。
しかし、戦場のあまりの凄さに小里の兵は唖然としているように見えるのだが、将たちは興味を示している様に見える。となれば、この予備会談でどれ程の質問が来るのやら、俺の裁量で何処まで話して良いかが悩み所だ。
永禄元(1558)年八月十四日 未の刻(15時)
■常陸国久慈郡小里城下 三田康秀
今宮殿との最初の挨拶とか話なんかの厄介ごとは今は大藤殿に任せて俺は直虎さん、千代女、美鈴とイチャイチャするだけ・・・・・・な訳が無いだろうが、今現在俺は、鉄炮弾で穴だらけになったり、孫太郎の鎗で首が飛んだり、直虎さんの弓で矢達磨になった死体と大鉄炮ですっ飛んでバラバラになった人間の残骸とそこから飛び散った血や肉片が彼方此方に転がっている戦場で工兵隊を指揮しながら掃除中だ。いわゆる戦場掃除と言うものだな。
孫六たちは次回の戦に備えて武器弾薬の点検整備に勤しんでいる。流石は専門家集団だ、勝ち戦でもその辺は抜かりが無いようだ。尤も戦の手柄話に花が咲いているようだがね。
孫太郎たちは捕虜にした田村勢の監視だ。田村勢は聞き取り調査の結果、最初に壊滅した小荷駄隊を含めて二千二百十九名だった。そのうち即死九百二十六名、重体で止めを刺さざるを得なかった者二百七十三名、重傷者四百五十五名、軽傷者五百十八名、幸運な無傷者四十七名で死傷率97.88%という完全に全滅した計算になった。
逆に、我が軍の損害は戦死者無しで、白兵戦時に手傷を負った者はいるが、重傷者は運悪く投げ込まれた手鎗に当たり全治一ヶ月ほどの一人のみ。残りは、鎗が掠った、転んだ、矢が腕に刺さった等の軽傷者五十三名で死傷率1.35%だった。
これ程のワンサイドゲームは中々お目に掛かれないだろう、これは初見だからこそ成功したようなもので、二匹目のドジョウを狙うと完全に裏をかかれる可能性が大きいからな。味方に箝口令をしこうと、人の口に戸を立てられないと言う様に、味方が酒の席でとか、今宮勢や敵から漏れるからな。まさか皆殺しとかできんだろう。何処からか必ず今回の事が漏れて、対策を立ててくるだろう。特に戦馬鹿(長尾景虎)、ダボハゼ(武田晴信)、第六天魔王(織田信長)なんかは確実に研究してくるな。
まあ、その辺は臨機応変に戦術を変えていくとして、捕虜になった連中で軽傷者と無傷者を合わせても五百六十五名、重傷者を合わせても一千二十名だから、孫九郎たち一千名と輜重兵一千の中での手空きに監視と看病させる事は容易だ。何故なら、殆どのものがあの轟音と首や胴体が飛び散る様、弾幕の凄さにPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発しているようで、非常にビクビクとしながら大人しくしているからだ。
そんな連中を尻目に彼方此方に見える死骸や残骸を見て拾うのは憂鬱だが戦場掃除は絶対に必要なんだよな。これをしないと、放置した死体を野生動物が喰い荒らすわ、腐って悪臭を放つわ、蛆や蠅が湧いて疫病の原因になるわ、田畑が使えないわで、本当にどうしようも無くなるから、したくなくてもしなきゃならんのだ。
しかし作業が進む進む。やはり専門職の工兵隊だからだな。みんな軽量鎧と鎖帷子を脱いで作業用のつなぎに着替えて作業中だ。ハッキリ言って旧暦の八月は十月相当で戦国時代は小氷河期と言われる程平均気温が低かったので、朝は肌寒かったんだが、昼を過ぎたら気温が上がってきた。そんな中で仕事するのに鎧を着てたら暑くてたまらんからこそ脱いだ。
全員野っ原で着替えたぞ、別に皆が皆露出狂な訳でないし小里城にいる女性陣に肉体美を見せたいわけではないと思うが・・・・・・やつら日頃の工兵仕事で筋肉隆々だから、小田原近郊ではニッカポッカにタンクトップと、安全第一と書かれた革製安全帽といういでたちで働きながら筋肉を見せびらかしているから。もしかしたらその気が有るのかもしれない。
流石に戦場ではしないが、今北條領内では俺が以前から再現した衣類などを扱う衣装屋の雲丹玄で販売しているニッカポッカやタンクトップが工兵の間で大流行しているんだよな。んー時代を先取りすぎはいけないのかもしれないが、ここまで来たら最早歯止めがきかんわ。
まあ、みんなもこの戦場を見て気が滅入っているからこそ、あんな風に明るく陽気に見えるようにしているんだよな。本当に工兵隊や輜重隊には頭が下がる思いだ。彼らがいなければ此だけの長距離行軍なんぞ成功しなかっただろう。
工兵隊が道無き道を築き上げ、輜重隊が重量の有る武器弾薬食料を運んでくれたんだから、大日本帝国陸海軍では『輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち 焼いた魚が泳ぎだし 絵に描くダルマにゃ手足出て 電信柱に花が咲く』とか言っていたからな。
とは言え、陸海軍も先天的な補給軽視ではなく研究や部隊編成はしていたが、身の丈以上の戦争したから破綻したんだよな。我が軍はそうならない様に確りとした部隊編成をしつつあるわけだ。
普段から工兵には各地の建設作業で技量を磨かせているし、輜重は喜助の伝手で多くの皮剥職人やらを雇って戦場における戦死馬の解体とかまでして貰っているので、今夜は桜鍋に出来るよ・・・・・・ってこの惨状じゃ肉なんか食う気にはなれないがね。乾燥させて馬肉ジャーキーでも作らせるしか無いか。
脱線はこの辺にして、戦場掃除も本来なら近所の農民を徴集して作業をやらせるのだが、今現在、この辺の住民は皆、西にある山へ逃げ込んでいるので、呼び出しても下りてくるまで時間がかかってどうしようも無くなる。それに言っちゃなんだが、農民は死体から金目の物や鎧兜、更には衣類まで剥ぎ取るから、残るのは褌一丁の死骸だけという状態になるわけだ。
まあ、農地を荒らされ、家を焼かれた彼らにしてみれば、損失補填なんだが、それが度を超して落ち武者狩りになる訳で、今まで溜め込んだ武器がわんさか有るから完全武装の落ち武者狩りになって正規の武士でも討ち取られる事になるので、死体処理は此方の専門職がする事が一番と言う訳になる。
それに、この時代は特に迷信を信じているから、亡者が彷徨いでるとか、祟るとか気にしまくりだ。その為に屍集めたり頸集めて胴塚や首塚を建立した訳だ。
それの延長で秀吉が朝鮮出兵で耳塚、鼻塚を作った訳だな。秀吉は講談の太閤記とかと違って相当な酷な政策していたし皆殺しとかしまくっていたからその人物の性格なんだろうけど、ある意味不気味だよな。
それで思い出したのは、史実での八王子城落城時の戦死者の遺骸を集めた塚が八王子城下に有るんだが、あそこの塚って、昭和期にコンクリートで覆われる前は骨が塚から剥き出しで出ていたんだよ。
今回はそうならないように、本当なら死体は荼毘に付したいんだが、戦場で薪が直ぐに集まるわけが無い訳で、まあそうだよな。城下の家は籠城前に焼き落としてあるし、それ以外の立木なんかは伐採して城の強化に使っていて外す訳にはいかない。その上、生木なのでそう簡単に燃えるわけが無いし、重油とかが有るわけでも無いので荼毘に付すことが出来ず。というかこの死体の数じゃ生焼けの死体が山ほど出来る羽目になるからな、それじゃ供養じゃなく単なる地獄の業火だからな。
結果的に確り大穴掘って埋めて上に大きな塚を立てる事にした。流石に此だけ殺したら俺でも信心深くなるよ。確り念仏を唱えて供養しよう。出来れば寺でも建てて永代供養するのが良いんだろうが、それは氏康殿、今宮殿、佐竹殿と話し合い次第だな。
永禄元(1558)年八月十四日 酉の刻(18時)
■常陸国久慈郡小里城 井伊祐子
戦場掃除を終え、もう夕方になったから、流石にこれから南下するのは危険で無謀だと言う事で、今日はここで泊まることになった。そこで旦那たちは今宮殿の用意してくれた心づくしの食事をしながら話し合いをし始めているんだけど・・・・・・飯が不味いって言うか粗食というか、まあ籠城していたわけだし小田原と違って山の中だからまあしょうが無いんだろうけど、此なら缶詰喰っているほうがましな気がしてきたのは、舌が肥えて贅沢になったんだろうね。
いけないいけないね。武士は粗食で一朝事有ればだからね、旦那と一緒になって旦那が作ってくれる飯が旨いからついつい食べすぎて、また胸と胴回りが増えた様な気がするんだよね。あまり増えると鎧が装着できなくなるかも知れないし、少しは節制しないと駄目だね。
しかし、籠城していた連中は最初の頃は臆した様子が見えたけれども、酒が入ると次第に旦那や大藤殿、孫太郎に質問しはじめて、旦那たちは質問攻めで困っているね。私には勝殿が相対しているけど、あの戦場を見たからなのか、青い顔で意気消沈という感じだね。まあ戦場を見てきた私でさえもあの惨状は絶句するしか無かったから、興味本位で戦場に付いてきたお嬢さんには刺激が強すぎたみたいだね。
「式部少輔殿、城から見ておりましたが、あれ程の戦は初めて見ましたぞ」
「左様左様、田村勢がバタバタと倒れる姿を見ているとまるで夢幻でも見ているようでした」
旦那から指揮官だからと下駄を預けられた大藤殿は曖昧に頷くしかないようだね。今宮殿を含め皆が皆、今回の戦を驚きをもって見ていたようで、身振り手振りで話しかけているんだけどね。
大藤殿は困ったような顔をしながら時折旦那の顔を見るんだけど、旦那は何処吹く風で頷くだけ。
気の毒だけど、それが役目だから頑張っておくれとしか言えないからね。
「是非とも当家にあの戦法を御教授して貰いたいものです」
「左様左様、あれ程の戦が出来るので有れば、伊達や芦名など完膚なきまで叩き潰せましょうぞ」
まあ、あんな戦は私だって生まれて初めてだし、雑賀衆の戦とも違う旦那の独自の戦法だからね。大藤殿も戦前の会談で旦那から聞いた事をそれと無しに暈かして話すしかないよね。幾ら盟約を結ぶと言っても全て明けっさらしにする事など狂気の沙汰だし。
「あれは、根来、雑賀の中でも秘中の秘でして、古今伝授のように一子相伝でおいそれと全てをお教えする事は出来ないのです。心苦しゅうござるが、今はご勘弁頂きたい」
「左様か、確かにそうですな」
今宮殿は残念そうだけど、あの顔は、何とか知ろうという顔だね。頻りに鉄炮衆を率いる孫六やらを見始めているから、これはどうやって聞き出すか思慮しているようだ。これはこれで欺瞞できて面白いかもしれないね。
旦那曰く、どうせ知られるなら高値で売りつけるのも一興、或いは大恩を与えるも一興と言っているから、戦が終わったら佐竹殿にでも教えるんだろうね。
しかし、こうしてみると、鉄炮衆の活躍が目立ちすぎて、精密狙撃を行った私らの話は出てこないのが樂で良いね。大藤殿、孫六、小太郎殿なんかはかなり評判なんだけど、目立たない弓衆は判るんだけど、あれだけ残敵掃討に活躍した孫太郎たちが話題にならないのは気の毒かもね。
何たって、葉とのことで私に頻りに良い所を見せようと大活躍して、全身返り血で血まみれの状態で鎗を振り回しながら首を飛ばしまくっていたけど、私は思ったね。逆に葉が引くぐらいだぞって、まあ、旦那も姿を見て『あれぞまさに赤鬼』って言ったけど、敵兵が悲鳴を上げながら逃げ惑う姿は、正に赤鬼だったわ。
しかし普段から孫太郎の訴えは毎度毎度過激だからね、今回も大将首は取れなかったが、それなりの首を取っているから、それだけ必死で本気だという事なんだけど、あとは葉の遠慮だけなんだよね。やっぱり旦那と話してそれなりのお方の養女にしなきゃだね。
永禄元(1558)年八月十五日 寅の刻(5時)
■常陸国久慈郡小里城下 三田康秀
朝になると戦場で血潮にまみれた昨日が夢のように清々しい朝日が昇ってきたんだが、やはり空気には血の臭いが漂っている。今宮殿もこれからの事が有るから判ってくれて、昨夜は宴も早めに切り上げてごろ寝だが安心して寝る事が出来たからな。
兵達も既に起きてこれからの進撃に備えて準備をし始める、ある者たちは武器弾薬の準備をし、ある者は朝餉や弁当の支度をし始める。
小里衆からも今宮殿の御子息光義殿が兵を率いて同行する事になっている。それに一度は青い顔していた勝姫も何故か参加させられているが、あれか、こっちの作戦を知るためのハニートラップにする気かもしれないな。何と言っても今宮家は佐竹家の諜報部門を司る家だからな。
しかし、あの活発な姿から青菜に塩状態の娘をだしてくるとは今宮永義殿、油断成らない人物だな。しかし味方にすれば頼もしいであろう。佐竹殿も良き家臣、まあ親族であるからもだが、持てて幸せと言えるな。
まあ、俺にも自慢できる家臣が増えたがね。最初は刑部をはじめとして数少なかった家臣も今じゃ、実家から来た三男以下の連中で増えたよな。親父の従兄の毛呂家とか、被官の金子家、金子家の被官だが家にも使えている奈良家、家の直轄地代官の中島家、吾那保の岡部家、檜原城代を任せている平山家などだ。
そのほか史実では家の家臣で後に平三郎(氏照)に仕えて滝山城で武田勝頼と一騎打ちした勇将師岡山城守将景の従弟の九郎五郎とかも来たし、無論刑部の婿の宮寺に久下も一生懸命仕えてくれているからな。
やはり半端者だったせいか、懸念していたスカウト組との確執も彼らの境遇を話したら、共感したのか殆ど無いし、今じゃ一緒になって新たな三田家の創立に携わっていることに誇りを持っているようだ。
しかし、満五郎は相変わらずというか何だが、今回は満五郎の藤橋家が胆だからな、藤橋家は元はと言えば陸奥国標葉郡出身で相馬家にも同族が仕えているから、相馬側への繋ぎとしては役に立つが・・・・・・
んー、役に立つよな、さっきからこの戦場で今宮の勝姫をエスコートしているんだが、何処かへしけ込まないだろうな、下手すれば事件が起こるぞ、まあ満五郎じゃそんな甲斐性はないけどな。
城門前では大藤殿が今宮殿と挨拶をしている。
さて、大藤殿が采配を上げたな。いよいよ出立だ。
永禄元(1558)年八月十五日 卯の刻(6時)
■常陸国久慈郡小里城下 今宮永義
遠くに確りとした足取りで一糸乱れずに進んでいく北條勢とバラバラに進む我が勢が見える。しかし我が勢と北條勢との姿を見ると思わず溜息が出てしまう。北條勢は将は元より兵に至るまで確りとした軍律で動いていることが判る。我が佐竹でもあれ程の動きをさせることは無理であろう。思わず北條が敵で無くて良かったと思う。
それにしても聞けばあの相馬の旗は三田殿の家でも使っていると、三田殿は相馬小次郎の末裔と言う事で相馬殿と同族で音信をしているそうだ。しかし田村殿にしてみれば息子の嫁の実家が敵対してきたと思ったようで、それも混乱の原因になったようだ。
しかし、捕虜にした陣夫たちを解放するだけでなく、米をそのまま安堵するとは驚きであった。普通であれば、米と馬は没収し陣夫は奴碑として売り払うと言うのにだ。その上、米の七割を銭で買い求めて、我らに渡して戦で家や田畑を失った民に分け与えてくれと言うのだから驚きの連続だ。
普通で有れば、百姓は戦で物を失うのが普通で、それを領主が補填するなど考えられ無いのにだ。無論本来で有れば補填するが良いので有ろうが、その様な金や物は軍備に当てるもので有ろうが、北條家は山のような銭と金銀を持ってきていた。
陣夫共も驚いていたが、銭を与えられると喜んで米を売り払っていた。まあそうであろう、あのまま米を持って帰っても、途中で奪われるか、持ち帰れても領主に接収されるかだからな。だが銭ならば見つからずに運ぶことも隠すことも出来る。
その上、策なのだろうが、軍夫共が帰ると共に、風魔衆の一部が影に護衛をしていったのだからな。これでは我らが先回りしてあの者たちから銭米を接収することも出来ぬわ。見事見事としか言いようが無い。それに米は二千俵(120㌧)を銭八百貫で買い取るとは考えられんことだ。
北條家の財力はあの大量の鉄炮といい聞きしに勝る状態と言えよう。征東大将軍様、関東公方様の件も有るが、これからの佐竹は北條との盟約を確実に固く続けなければならない。話によれば、御曹司(義重)と北條の姫の婚姻が決まったようだが、それだけでは弱いであろう、出来れば此方からも姫の御一人を北條の子息に嫁がせることだ。
更には親族衆にもだ。その為であれば北條の親族、悪くても重臣の家と誼と絆を結ばないと駄目だ。その為に勝を差し出すも致し方無しじゃ。勝には酷い親と言われようとも佐竹の影を司る家に生まれた以上はいずれそうなる運命、願わくば勝が良き伴侶を迎えられるようになってくれ。
勝よ済まぬ、済まぬ。
永禄元(1558)年八月十四日 酉の刻(19時)
■常陸国那珂郡深萩 北條氏康
「来たか」
明日の為に軍議を終えた儂が寝泊まりしている寺の本堂へ帰り鎧下になった。
次の瞬間には小次郎が座り頭を下げている。益々親父に似てきたの、まあ小太郎は相変わらず『未だ未だ未熟にございます』と言うのだが、儂から見れば既に立派な頭領とも言えるのだがな、やはり親はどうしても子が未熟に見え心配なので有ろうな。小太郎の気持ちを思うと思わずほくそ笑んでしまう。
「御本城様、本日未の刻(14時)大藤様、田村勢を撃破致しました」
心配はしていなかったが、流石は式部丞よ。親父譲りの戦技巧者よ。
「うむ、それで戦況は?」
「はっ、はじめに小荷駄を奪い、その後、三田様の大鉄炮にて敵の将を討ち取り、混乱した所を鉄炮衆による三段撃ちにて」
「そうか、して被害は?」
「御味方の死者は無く、敵は一千以上が討ち死にし残りは全て捕らえました」
うむ、流石よ。長四郎の思案と雑賀衆の技量が正に最大の効果をもたらしたわけだ。しかも敵兵全てを捕らえうち倒すと言う事は正面の敵は後方が遮断されたことを知らぬ訳だ。これは明日の戦でどう作用するか、さて如何利用してやるか・・・・・・うむならば決まりだ。
「小次郎御苦労であった」
「はっ」
「悪いが、書状を書く故、二刻したら取りに参れ。それと走り疲れたであろう二刻の間は体を休めよ良いな」
「はっ」
小次郎も走り続けたのであるから休みを取らせてやらねばならぬからな。
それにしても、此程までの鉄炮の活躍に、これからの戦はどうなっていくのであろうか、しかし鉄炮や煙硝の値段が問題で他家が何処まで揃えられるかで決まるか、武田大膳太夫は天文二十四(1555)年に旭山城に鉄砲三百を揃える程に鉄炮を買い集めた様だが、さほど戦場では使っておらぬようだ。やはり煙硝が手に入りにくいと見える。煙硝一つを見ても長四郎の果たした役割は大きい、ましてやそれ以外の事が多く有るのであるから、本当に長四郎を遣わしてくれた事を神仏に感謝したいものだ。
そういえば、三田家の先祖平将門公を祀る神社が岩井に有ると言っていたか、あの地を恩賞として長四郎に渡すのも良いかも知れぬな。あとは津久戸明神と江戸の首塚の地も良いかも知れぬな。そうじゃ、妙に聞いた松田孫太郎が熱心に婚姻を求めておる娘が身分不足だが、儂が然るべき家の猶子として嫁がせる事も良いやも知れぬな。
何にしても、伊達と岩城がどう出てくるか、明日はそれで決まるな。
4巻ご購入ご愛読ありがとうございます。
皆様の応援いつももありがとうございます。
これからも頑張ります。
私事ごとですが。病気養生中だった伯父が八十一歳で無くなり、ごたごたしております。中々更新できず申し訳ありませんでした。
感想返しはおいおいしていきますので暫しお待ちください。




