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三田一族の意地を見よ  作者: 三田弾正
第壱章 青梅編
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第壹話 戦国時代へこんにちは

自分の一族の先祖へ転生、果たして歴史を変えることが出来るか?


歴史物を書いてみたくなり先祖の辿った歴史を変えることを考えました。

天文十二年七月十四日(1543)


武蔵國むさしのくに多西郡勝沼城たさいぐん かつぬまじょう


この日、関東管領かんとうかんれい山内上杉氏やまのうち うえすぎし重臣じゅうしんの一人である三田みた弾正少弼綱秀だんじょうしょうひつ つなひでと側室おふじの間に男子が誕生した。綱秀にしてみれば第四子が誕生したのであるが、既に嫡男十五郎、次男喜蔵、三男五郎太郎がいた為に余り期待はされていない子であった。


「御屋形様、おめでとうございます。おふじ様が元気な男児をお産みになりました」

「ふむ、そうか。しかしのー出来ればおなごの方が嫁に出すなどして役に立つので良かったのだがな」

「殿、その様な事を」


「すまんの、愚痴じゃ愚痴じゃ」

「してお名前は如何為さいますか?」

「そうさのー、四男であるから、余四郎よしろうで良かろう」


「余四郎様でございますか」

「そうよ、余り物で四男じゃからな」

「余りにもお可哀想でございます」


「なにどうせ仏門へ入れる事に成るのだからな」

「はぁ」


三田家に生まれた赤子は余四郎と名付けられ育てられたが、この赤子数えで五歳になる頃に聡明さを発揮し始め、お付きの家臣達を驚かせる事となった。


天文十六年十二月(1547)


■武蔵国多西郡勝沼城


いやはや驚いた。いきなり気がついたら体が小さく成って居るわ、周りはみんな和服で武士だし喋り方も時代がかっているし、何度此処はと思ったが次第に記憶の整合が行われて、自分が何とご先祖様の一族である青梅勝沼城主三田氏の子供に成って居た!!


三田氏ですよ!三田氏!よっぽどの戦國マニアぐらいしか知らないですよ。信長の野望にも出てないはずだ!それも親父の名前が三田弾正少弼綱秀ですよ。といっても殆どの人は判らないよねー。


三田氏は関東管領山内上杉氏の重臣で武蔵国多西郡勝沼城主(東京都青梅市)なんだけど、時代の流れに流されて、小田原の後北條氏に頭を下げて旗下になったは良いけれど、山内上杉家を継いだ長尾景虎ながおかげとら、所謂、上杉謙信うえすぎけんしんが関東へ越境して小田原を攻めたときに、圧力に負けたのかそれとも鬱積した何かがあったのか知らないが再再度寝返って上杉謙信の旗下に行ったは良いけど。


まあ蝙蝠みたいだよね。史実じゃあの上杉謙信でも小田原城を落とせずに撤退、その後色んな要因が有って、瀧山城主たきやまじょうしゅ北條氏照ほうじょう うじてるに目の敵にされて、滅ぼされるんだよー!!


ぐわー、天下の後北條相手に山ばっかの一地方政権が勝てるかってんだ!!

其処の貴方、上杉謙信に味方しないで後北條側に付いていればいいじゃないかって言うだろうけど、北隣で家の傘下の毛呂氏もろし毛呂城もろじょうが簡単に上杉氏に落とされてるんですよ。しかもその時の上杉は謙信じゃ無い無能な方の先代だったんだから、それに比べて謙信の破壊力はSSSですよー!!


そんな謙信さんを敵にするなんて怖くて出来ませんよ!それじゃ謙信が帰國したらサッサと後北條に頭下げて謝っちゃえって言う貴方、それも無理なんだよー、瀧山城主北條氏照は武蔵國守護代むさしのくに しゅごだい大石氏おおいししの婿で一時期大石氏とか由井氏ゆいしとかを名乗っていたんだけど、その大石氏の勢力圏がうちと被るんだよね。


それに北條氏照は多摩川上流の森林資源とかの権利を狙っているんだよね、その為に頭を下げてもまず無理なんだよー!!それに俺は四男らしいし、家臣の話を聞くと余り物だから余四郎だってさ、そんな子供の言う事を上層部が聞いてくれるわけがないわい!!


このままだと滅亡まっしぐらです、それに最悪な事に1561年に勝沼城を捨てて山城の辛垣城からかいじょうに移ったけど1563年に家臣の裏切りで落城ですよ。


その時に家族は皆逃げたけど、親父は武田に逃げ込んで、誰だか忘れたが重臣の一人と伝手が有ったらしく信玄に仕えようとしたらしいだけど、役立たずの烙印押されて憤死したとか落ち武者狩りにあったとかで死亡。


長男、次男は岩付城の太田三楽齋おおたさんらくさいを頼って逃げ込んだけど、三楽齋が長男の氏資うじすけに追い出されて後北條方に寝返ったので、其処で捕まって殺されたとか、家臣の谷合なんとかに謀殺されたとか言われてるんだ。三男は逃げきれたらしいけど、何故か伊豆で1572年に自害したらしいんだよね。


自分の知る限り三田弾正少弼綱秀には四男は居なかったはずだから、イレギュラーなのかな?覚えている話じゃ孫姫に笛姫がいて、落城後に隠れ住んだんだけど、よりによって怨敵氏照に見初められた挙げ句に側女にされて、その後に氏照の妻である、大石定久おおいし さだひさの娘の比佐ひさの手により殺害されるんだ!!


義姉上のお腹の中にいる子がその姫の可能性が凄く高いんだよね。しかも今年は天文十六年ですよ。去年の天文十五年には川越夜戦で扇谷上杉家おうぎがやつ うえすぎけ山内上杉家やまのうち うえすぎけ古河公方足利家こがくぼう あしかがけの連合軍八万が僅か一万ほどの後北條軍に敗れたんですよ。ボッコボッコのフルボッコです。


その結果、大石定久は速攻北條に尻尾振ったみたいだけど、親父は未だ迷ってるみたいだ。聞く所によると、大永年間(1524)には一回北條の傘下に入っていたんだけど、川越戦で北條が謀略で情けない状態を見せたときに寝返ったそうだ。その差があの最後になったのかも知れないね。やはり一度裏切った相手は信用できないんだろうな。全く遅かれ早かれ頭下げるんだからサッサと頭下げれば良いのに、下手なプライドが有るからなのかねー。


何と言っても、ホントか嘘か知らないけれど、我が家はあの有名な平将門公たいらの まさかどこうの末裔だって自称してるから、将門公の怨敵である平貞盛たいらの さだもりの子孫である伊勢氏出身の後北條氏に頭下げたくないんだろうな。


しかしこのまま何もしないで行けば、あと十五年ほどで滅亡ですよ。何とか出来ない物だろうか、それを考えなければ成らないんだけど、いかんせん余り物だから、家臣も一人しかいないし、残りは下男下女ばかりで学がないんだよなー。アラビア数字とか教えたいんだけどまず無理なんだよ。


んー北條に対抗可能なのは上杉謙信うえすぎ けんしん、この頃は長尾景虎ながお かげとらかな?の小田原攻めで積極的に攻め込んで後北條を滅ぼすしかない。そうだ、それしか無いのだ!!


そうなると鉄砲と火薬は確実に必要だな、出来れば越後の石油、所謂臭水を手に入れないとだ。それに奥多摩と言えば石灰石じゃ無いですか、セメントを作って辛垣城を要塞化すれば万が一でも撃退可能なんじゃ無いかな。んーそれには金が必要か。甲斐の黒川金山くろかわきんざん丹波山金山たばやまきんざんは武田の勢力圏だしなー、武蔵国秩父の股野沢金山またのさわきんざんは未だ発見されてないけど秩父衆の勢力圏内か、んー金山無いじゃないカー!!


石炭なら、東京炭鉱が成木川なりきかわ沿いに有ったから、今なら全く手つかずだし掘ってみるか。

ともかく未だ数え五歳では大したことも出来ないからな。勉強有るのみだな。


こうして俺の戦国時代が始まった。史実を覆す事が出来るのか、判らないけどな。

多摩郡を多西郡へ修正


資料で笛姫が綱秀の孫娘だと判明したためその様に修正しました。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] すげーな、マイナー武将の息子達の末路とその経緯まで知ってるのか… この知識をそらで言えるとか前世が歴史学者並みに頭良いのに「~なんだよ~」とか多用してて精神がガキのままなのも気持ち悪…
[気になる点] 少弼にしょうしつとふりがな振られていますが、しょうひつじゃないでしょうか?
[一言] うっほ。関東地方の超ローカル武士なのか。 関東武家って、十把一絡げで扱われること多いから、期待。
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