二人の理系と一人のバカ シュレディンガーの猫
「シュレディンガーの猫」とは、1935年に物理学者エルヴィン・シュレディンガーが提唱した量子力学の「重ね合わせ」状態の奇妙さを説明するための思考実験。この実験は、箱の中の猫が観測されるまで生きている状態と死んでいる状態が同時に存在するというパラドックスを示す。密閉された箱の中に猫、放射性物質、毒ガス発生装置を入れる。放射性物質が崩壊すると毒ガスが発生し、猫は死んでしまう。が、量子力学では、観測されるまで粒子の状態は「重ね合わせ」にあるとされる。なので、箱を開けて観測するまでの間、猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」同時に存在すると考えられ、観測によって初めて、猫の生死が確定することになる。
――ヤフー検索に対するAI解答より――
夜更けである。
テーブルの上には空になったいくつかのツマミの袋。そして、ビールの空き缶が所狭しと並んでいる。
それまでずっと続いていた、サークルの誰彼の恋愛や失恋、結婚やら離婚の噂話が途切れ、場が静まった、そんな時。
N君がふと眉をしかめたかと思うと、ゆっくり口を開いた。
「なあ、シュレディンガーの猫、知ってるよな?」
「当たり前だろ。量子力学の観察者効果の不可思議な性質について述べた思考実験だ」
と、打てば響くように答えたのはS君である。
N君は理学部博士課程卒業後も大学に残り、今は研究のかたわら学部生に物理学の講義をしている研究者の卵。S君は工学部修士課程修了後にメーカーに就職、今はエンジニアとしてばりばり働いている。
どちらも理系だけあって、今のようにかなりディープなサイエンス系の話題がとびだしてもすぐに対応し、その話をツマミに酒を飲めるという、希有な人種である。
「んで?そのシュレディンガーの猫――観察者が実験結果を確認するまでの間、生きてる状態と死んでいる状態が重なっているはずのその猫が、一体どうかしたか?」
グビリとビールを飲みつつ、S君がさらに言葉を重ねると、N君はこくりと頷いた。
「うん。それなんだけどさ。あのシュレディンガーの猫は、純粋な思考実験だったんだけど、どっかの理系ユーチューバーが、あの実験をリアルに再現してみたらしいんだよ」
「は?まじで?」
「うん、マジで。しかも、かなり厳密に条件を設定してね」
「どんな風に?」
「光子の2重スリット実験を利用したらしい。あの実験なら、厳密に半々の割合で縦偏光と横偏光が検出できるからね。縦偏光ならなにも起こらず、横偏光なら毒ガスが噴出し、箱の中の人間が死ぬようにしたんだよ」
「え、猫じゃなくて、人間の被験者使ったのか!?」
「うん、そうじゃないと結果がはっきり分からないから、そのユーチューバー本人が被験者になったんだって」
「マジかよ!ガスが出たら死んじゃうじゃん!」
「いや、本当に死んだら大変だから、医療チームをひと揃い用意して、蘇生できるようにしてたらしい」
「へえええ。いやでも、それにしたって、バカなヤツだな。蘇生の確率だって、100%じゃないだろうに」
「ほんとにね。すごい無謀だよね」
「でも、確かあの実験って、結果を誰かが測定し、観察したらいけないんじゃなかったか?そうなった途端、波動関数が収縮して……」
「そう。観察した途端、結果が確定しちゃうから、毒ガスが出るか出ないかも決まっちゃう」
「中に人間が入ってたら、ガスの噴出音がするかしないかとか、息苦しくなるとか眠くなるとかで、結果に気づくだろ?だったら実験にならないんじゃねえか?」
「そこは、気をつけたみたいだね。被験者本人にはわざわざ全身麻酔をかけ、意識のない状態にして。ひょっとすると、それでも無意識に死の危険を察知するかもしれないからって、完全密閉の棺桶みたいな装置の中に入って、わざと大きな音を立ててポンプで装置内の空気を強制吸排気するようにし、その吸気にこっそり混ぜて、無味無臭の毒ガスを注入するようにしたんだってさ」
「へえええ。そんな大がかりなことしたのかよ」
「うん。すごいよね」
「で、結果はどうなったんだ?そのユーチューバー、死んだのか?」
S君、少々悪趣味にも、身を乗り出してそう尋ねる。
と、N君の顔が曇った。
「うん……それなんだけどね。分からないんだよ」
「なんだよ、分からないって。実験失敗だったのか?」
「いや……それも分からないんだ」
「はあ?」
「いや、ね。確かに量子重ね合わせは起きたはずなんだ。それで、皆結果がどうなってるのか、期待して密閉された箱を空けてみたんだけど……」
「けど?」
「空っぽだったっていうんだ」
「……は?」
「いや、だから、確かに被験者が中に入ったのも、ふたを閉めて、しっかりと周囲を密閉したのも確認したんだ。だから、被験者は絶対中にいるはずなのに、ふたを開けてみたら、消えていたっていうんだよ」
「……なんだそりゃ?意味分からんぞ?」
「うん。僕も、なにがなんだかさっぱり分からなくて。それで、君ならなにか思いつくかと思って……」
「んなもん、分かるかよ!なんでただの物理学実験で、人が消えなきゃならねえんだよ!」
S君は怒ったようにそう言い放つと、がぶがぶとビールをあおった。
と、そこへ。
それまでずっと黙ったまま、おもしろそうに二人の話に耳を傾けていたRが、にっこり微笑んだかと思うと、おもむろに口を開いた。
「オレ、なにが起こったのか、分かったと思う」
「……あ?」
少々得意げな表情となったRを、S君もN君も、この上なく疑わしそうな目で見つめた。
それもそのはず、このRときたら、大学でもっとも入りやすい文学部に・自己推薦で・しかも合格ぎりぎりですべり込んだと、当時から豪語していた男である。しかもその上、その「素通し文学部」「猫よりヒマな文学部」ですら2年留年し、ようやくなんとか卒業したものの、就職もせず、あちこちでバイトをしては自分で立ち上げた劇団だか演劇グループだかで公演活動をしている、大学の同級生きっての怪しい奴なのである。
同じ演劇サークルで出会い、数年間共に活動したのでなければ、優秀な二人とは全く接点などなかったはずの落ちこぼれ。数学や科学の知識はせいぜい中学生レベルで、当然ながら、到底量子力学やらなんやらの難問が理解できるおつむの持ち主ではない。
にもかかわらず、自信ありそげな態度を見せるものだから、普段からアツくなりやすいS君、ついかっとなってしまった。
「本当に分かったのかよ?だったら、説明してみろよ!」
つっけんどんな口調でそういうと、じっとRをにらみつける。
が、当のRは薄笑いなど浮かべ、余裕たっぷりにビールをすすり、それからおもむろに口を開いた。
「ま、お前ら二人がなにを思ってるのかは分かる。お前のような素人になにが分かるか、ってんだろ?」
「いや、ちょっと違うな。お前のようなバカになにが分かるか、って思ってるんだ」
その言い方がおもしろかったのか、ニヤニヤ笑いながら、Rはうなずく。
「確かに!オレはバカで、量子力学やら観察者効果やら言われたところで、全くちんぷんかんぷんだ。でもまあ、お前らの話を聞き、少ない脳みそを絞って理解した限りじゃ、結局のところ、その被験者ってヤツ、生きてる状態と死んでる状態が重なった状態になった、ってことなんだろ?」
「まあ……そうだな」と、S君がしぶしぶ認める。
「生きてる状態と死んでる状態が重なったってことは、生きても死んでもいる、あるいは、生きてもいないし死んでもいない状態ってことだよな?」
「まあ……うん、そうともいえるだろうね」と、今度はN君がうなずく。
「そうだとしたら、きっと、その「被験者」ってヤツ、麻酔で眠らされながらも、きっと無意識に気づいたんだよ。今は生きてもいないし死んでもいない状態だけど、このままなにもせずにいれば、間もなく毒ガスが噴き出して本格的に死ぬことになるって」
「ほう」
「だから、きっと、あわててその実験装置の中から逃げ出したのさ。生きててしかも死んでる状態――つまり、幽霊となった体を利用し、装置の壁をすうっと通り抜けてね」
Rはすました顔でそういうと、にやりと笑う。
「は、はあ?」
「お前、まさか本気でそんな……」
二人が目をむき、あきれ果てた表情となったところで、Rはぷっと吹き出した。
「なんてな。もしそうだったらおもしろかっただろうにと思ってさ」
そういって、ケラケラと笑い出す。
たちの悪い――いかにもRらしい冗談だったのだ、と気づいて、二人も苦笑を浮かべる。
「全くもう、お前ってヤツはいつもいつも……」
「そうだよ。びっくりしたじゃないか」
と、揃って缶ビールに手をのばした、その時。
「あたり…」
3人それぞれの耳元で、聞き覚えのない声がそっと囁いた。
思わず3人が凍りついたように静止したところで、
うひひひひひひひ…。
嬉しそうな、楽しそうな、それでいてどこか照れくさそうな笑い声が、部屋いっぱいに響き、そして消えていったのだった。
今回は、ちょっと趣向を変えて。
中長編の方が得意だ(それしか書けない)と思っていたのに、ショートショートを書いてみたら意外に楽ししく書けたので、調子に乗って書いてみました。




