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満月が泉に映る。
波紋は止まった。
守りたかった。
命に代えても守りたかった人たちを。
太陽に照らされた精悍な面差しの青年たちが、
確かに私の名を呼んで——。
弦が弾かれた。
思い出してはいけない。
それだけは、絶対に。
揺蕩う光は吸収され、溶けて消える。
永遠に。
呼んでいる、彼らが。
応えられない。
その資格はないのだ。
涙が止まらない。
⸻私はあの時、溶けてゆくべきだった⸻
夜空に星は一つもなく、白銀の満月のみ。
深い深い森に囲まれているのは、大きな泉。
穢れのない乙女のように美しいその泉に佇んでいるのは、一人のボロボロの服をまとった青年だった。
⸻なぎ。
泉がゆれ、
一面光に包まれた。
スマホのアラームで目が覚めた。
朝日が眩しい。
⸻あの人、やっぱり悠に似ている、というか同じ顔、同じ声。でも違う、いったい何が⸻
「なぎー! 起きてるの! 悠君来ちゃうわよ!」母が1階から呼んでいる。
凪は時計を見た、もう10分も過ぎていた。
「やばー! 高校入学初日から遅刻なんてありえない!」
部屋から飛び出して、1階のダイニングへ行く。「いただきます」の声と共に急いで食べ始めた。
新聞を読んでいた父が笑った。
「相変わらず朝は慌しいな」
凪は味噌汁をすすってむせた。
「朝起きるの苦手なんだよね」
凪の箸が止まる。
⸻昔からあの人の夢をみる。私が子どもの頃から、あの人は変わっていない。むしろ悠が⸻
母が手を叩いた。
「凪。手が止まってるわよ」
「ごちそうさま!」
キッチンへ食器を置いて、急いで歯を磨く。
軽い足取りで2階の自室に戻り、掛けておいた制服をとった。
県で一番可愛いと評判の制服。
着てみて、鏡の前に立つ。
顔や体型は変わらなくても、制服が違うだけで可愛くなった気がする。
⸻やっぱり可愛い制服の学校にしてよかった⸻
後ろを見たり、裾をひらりと揺らしてみる。
玄関のチャイムが鳴った。
「やば! 悠が来た」
凪は窓を開けた。
「おはよー! 今行く」
キッチンで洗い物をしている母に声をかけた。
新しい生活に胸が弾む。
「じゃあ、お母さん。行ってきます!」
「車に気をつけるのよ」
玄関を開けると、家の前に悠真が立っていた。視線を上から下へ動かして、凪を見定めている。
凪はそっぽ向いた。
「ふん! 馬子にも衣装って言いたいんでしょ?」
悠真は家の外壁に壁ドンした。
「似合ってるぜ」
凪は手を払った。
「いつまでそんな古典的な方法やってるのよ。そんなんじゃ、モテないわよ。古くさい男って」
凪は自分の冗談で笑ってしまった。
「馬鹿だな、お前。手法じゃない。誰がやるかが問題なんだよ。俺くらいカッコいいと、そんなこと些細な問題だ」
悠真は容姿が魅力的であることを自覚している。
程よく焼けた肌に、筋肉で引き締まった体。鼻筋はスっと通っていて、何より人を惹きつけるのは、彼の瞳に宿る溢れる生命力の輝きだった。
凪も悔しいが、かっこいいとは認めている。
「高校でも野球やるの?」
「もちろん」
「リトルからやってるんだから、強豪校にすれば良かったのに」
「いいんだ」
「え? まさかいじめられてたの?」
悠真は苦笑いしながら、手を振った。
「分かっているんだよ。俺の実力ってやつをさ」
悠真は凪の頭をポンと叩いた。
「朝練ない日は迎えに行くから」
凪は慌てて手を振り解いた。
「だ、だから、あんたなんていなくても大丈夫。保護者は面は、い、や!」
凪はツンツンと歩きだした。
電車内は、真新しい前橋黎明高校の制服を見かける。
凪は身を縮めていた。
同じ制服の人がひそひそ話している。
「あのカッコいい人、新入生じゃない?」
「ほんとだ! かっこいい〜。じゃあ隣にいるのは、彼女!? え〜」
凪は声を低くして言った。
「あんたのせいで、誤解されているんですけど」
悠真はニヤニヤしていた。
「なんだ? 嬉しくないのか」
凪は新品のカバンで、悠真の背中を叩いた。
高校生活最初の一発だ。
車内はクスクス笑い声と、落胆の声が入り混じる。
新前橋駅で降りてさらにバスに乗り、前橋黎明高校に到着した。ちょうど桜の花が満開だった。
悠真が言った。
「散ってる桜って、きれいだよな」
凪は上を向いた。
薄い白い雲が伸びている。
「そう? 私はいや」
「なんで?」
「…かわいそうだから」
「凪! 悠真君!」
優奈に美咲、里奈だった。三人とも小学校からの友達だ。制服の可愛い高校で、華の高校生活を送ろうと、同じ高校にしたのだ。
優奈が言った。
「悠真君さすがね。もう噂がたってたよ」
「だろう! 優奈なら分かってくれると思ってたんだ。それなのに凪ときたら」
凪は背中にもう一発お見舞いした。
里奈が笑っている。
「凪、かわいいカバンが、ボロボロになっちゃうよ」
美咲は口角を上げた。
「悠真君のために、ね」
「もー! みんなまで!」
ドッと笑いが起こった。
優奈が言った。
「じゃあ、クラス表見に行こうよ」
凪と悠真、優奈が同じクラス。美咲と里奈が同じ、という組み合わせだった。
4人で写真を撮っていると、悠真は既に女子たちに囲まれていた。
女の子はもじもじしている。
「あ、あのお名前なんですか?」
「俺? 佐藤悠真」
歓喜と落胆が沸く。
悠真は得意のキメ顔を向けた。
登校する生徒たちの視線が、キャッキャとはしゃぐ女の子たちに注がれている。
凪はこれ以上騒ぎの元に近づきたくなく、下駄箱に向かう。
悠真が気がついた。
「あ、待てよ。俺も行く」
小走りする悠真。女の子たちも後ろから付いてくる。
「げ! 優奈、美咲、里奈。ダッシュ!」
優奈たちは目を合わせてクスクス笑って走り出した。
下駄箱に着く頃には、あっという間に悠真に追いつかれてしまった。
凪は真っ白な上履きを履いて、悠真から少し距離を置く。
悠真は笑いを堪えている風だった。
「なんで逃げるんだよ」
悠真は間を詰めてきた。
凪はすぐ離れた。
「ちょっと、離れてよね! 彼女だなんて思われたら」
凪はギョッと後ろを見る。
さっきの女の子たちが、まだいたのだ。
ヒソヒソ話している。
悠真は爆笑した。
「お前、自分から言ってどうするんだよ。誤解されたくないんだろう」
「悠のバカ!」
凪はツンツン歩いて行く。
「同じクラスなんだから、無駄だって」
教室に着いた凪は、カバンを置き、荷物をロッカーにしまった。
優奈もロッカーに荷物をしまった。
「悠真君すごい人気ね。私は小学校から同じだったから、慣れちゃったのかな」
凪は遠くを見るような目で見ている。女の子の数は半減したが、男の子も集まりだしていた。
「悠は野球やってたから顔広いのよ」
「それにしても、凪。今日のヘアアクセサリーすごい可愛い」
「さすが優奈。1番に気が付いてくれた」
凪は頭を振って見せた。
「高校デビューに合わせて買ったの。私の瞳の色と同じ、茶色の紐が気に入っちゃった」
「あの〜」
クラスの女の子が声をかけてきた。
「私、桑原陽菜っていいます。よろしくお願いします」
「私は月城凪」
「私は外丸優奈。よろしくね」
陽菜が凪と優奈に小さな声で言った。
「あのカッコいい人、名前なんて言うんですか? 月城さんと一緒に電車にいるところを見たんですけど」
凪は顔を真っ赤にする。
「ああ、佐藤悠真君ね。小学校からの友達なの」
陽菜はパアッと顔を明るくした。
優奈はニコッと笑った。
「悠真君、カッコいいもんね」
今度は陽菜が顔を赤くして、頷いた。
「あ、ありがとうございます!」
恥ずかしそうに席に戻って行った。
凪は優奈の手握って、ぶんぶん振った。
「優奈ありがとう〜」
「凪のことだもん。悠真君に一発おみまいしたのを、見られちゃったんでしょ?」
「だって! あれは悠が!」
凪はツンとそっぽ向く。
「彼女だ、って誤解されたくないの」
「はい、はい」
優奈はクスクス笑っていた。




