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第9話:見せつけられた絆

第9話:見せつけられた絆

 桔梗が嵐のように去っていった後、離れの部屋には彼女が残していった甘い白粉の香りと、そして息の詰まるような沈黙だけが残された。

 才蔵は何も言わなかった。ただ、桔梗が触れていった自分の腕を見つめている。その横顔にどんな感情が浮かんでいるのか、小夜には読み取ることはできなかった。

 だが、彼女には分かった。彼の心が、今ここにはないことを。遠い過去の思い出の中を、彷徨っているのだと。

 小夜は、自分の存在がひどくちっぽけで、そして場違いなものに感じられた。

 桔梗。あの太陽のような女性こそが、彼の隣に立つべき人なのだ。自分のような、日陰に咲く毒の花ではない。

 彼女の心の中に、再び冷たい氷の壁が築かれていく。それは自己防衛のための壁。これ以上傷つかないように。これ以上惨めな思いをしないように。

 彼女は再び、心を失くした人形に戻ることを選んだ。


 翌日から、小夜は完全に才蔵を避けるようになった。

 食事の時も彼と視線を合わせず、必要な言葉以外は一切口にしなくなった。才蔵が話しかけても、ただ小さく頷くか、首を横に振るだけ。

 そのあからさまな拒絶の態度に、才蔵は苛立ちを覚えた。

 あの粥を分け合った夜に生まれた、ささやかな温もりは幻だったのか。いや、そもそも自分は何を期待していたのだ。彼女は任務の道具だ。それ以上でもそれ以下でもない。余計な感情を抱いた自分の方が、愚かだったのだ。

 そう自分に言い聞かせれば聞かせるほど、彼の心もまた頑なになっていった。

 二人の関係は、祝言を挙げたあの日に逆戻りしてしまったかのようだった。


 そんな最悪の状況の中、幕府からの次なる指令が下った。

 中級の瘴穴の調査。それは前回よりもさらに危険度の高い任務だった。

 才蔵は嫌な予感がした。だが、断ることはできない。

 彼は小夜にただ一言、「行くぞ」とだけ告げた。

 小夜は無言で頷いた。


 瘴穴の中は湿った土と腐敗の匂いに満ちていた。

 前回とは比べ物にならないほど瘴気が濃い。鬼もまた、より強力だった。

 才蔵は冷静に状況を分析し、的確な指示を出す。

「……小夜。右手の岩陰に三体潜んでいる。お前の力で動きを封じろ」

 だが、小夜の反応は鈍かった。彼女の祈りは弱々しく、放たれる光も頼りない。鬼の動きを完全に封じることができず、一体が才蔵へと襲いかかってきた。

「――ちっ!」

 才蔵は舌打ちをすると、自らその鬼の前に立ちはだかる。呪いの激痛に耐えながら、杖の仕込み刃で鬼の攻撃を受け流した。

 だが、その隙に別の一体が小夜へと迫る。

 その瞬間、才蔵の体がほとんど反射的に動いていた。

 彼は小夜の前に飛び出し、その背中で鬼の鋭い爪を受け止めた。

 ブシュッ、と肉が裂ける生々しい音。

 彼の背中に三本の深い傷跡が刻まれ、鮮血が噴き出した。

「……ぐっ……!」

 才蔵は苦痛に顔を歪め、その場に膝をつく。

「……なぜ」

 小夜の震える声が響いた。

「……なぜ、私を庇ったり……」

 才蔵は荒い息の中で、吐き捨てるように言った。

「……勘違いするな……。お前は重要な任務の駒だ。ここで失うわけにはいかん……それだけだ……」

 その言葉が嘘であることは、誰の目にも明らかだった。

 だが、その不器用な嘘は刃となって、小夜の心を深く、深く切り裂いた。

 自分のせいだ。自分が心を閉ざしたせいで、彼を危険な目に遭わせた。そして、彼はそんな自分を命懸けで守ってくれた。

 後悔と罪悪感が濁流のように、彼女の心を押し流していく。

 小夜は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


 その夜、屋敷に戻った才蔵の元へ、桔梗が見舞いに訪れた。

 彼女は彼の背中の傷を見るなり、悲鳴のような声を上げた。

「まあ、才蔵様! なんというお傷……!」

 彼女は手慣れた様子で薬を用意し、才蔵の傷の手当てを始めた。

「……やはり、あのような娘御に、あなたのおそばは務まりませんわ。わたくしがおりましたら、決してこのようなことには……」

 桔梗は才蔵を気遣う言葉をかけながら、ちらりと部屋の隅にいる小夜に視線を送る。

 その目にはあからさまな軽蔑と、そして勝利者の優越感が浮かんでいた。

 小夜は何も言い返せない。ただ、自分の無力さを噛みしめるだけだった。

 自分にはないもの。彼を癒す知識も技術も、そして何よりも彼と共有してきた時間の記憶も。その全てを、この桔梗という女性は持っている。

 自分はやはり、彼の隣にはふさわしくない。

 小夜は音もなくその場を立ち去った。その小さな背中はひどく打ちのめされて見えた。

 才蔵はそんな彼女の後ろ姿をただ黙って見つめていた。桔梗の手当てを受けながら、彼の心は別の場所にあった。

 彼は初めて後悔していた。あの時、小夜にもっと別の言葉をかけてやれなかった、自分自身を。

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