第8話:過去からの訪問者
第8話:過去からの訪問者
小夜が粥を食べられるまでに回復してから、数日が過ぎた。
離れの氷のように張り詰めていた空気は、まだ残っている。だが、その氷の表面がほんの少しだけ溶け始めたような、奇妙な変化が訪れていた。
二人の間に、相変わらず会話はほとんどない。
だが、時折、視線が合うようになった。
そのたびに、小夜は慌てて顔を伏せ、才蔵は気まずそうに目をそらす。
そのぎこちないやり取りが、逆に二人の間に人間的な何かを生み出していた。
才蔵はもう、小夜をただの「監視対象A」として見ることはできなくなっていた。
彼女はか弱く、危うく、そして放っておけない一人の少女だ。
その認識の変化が、彼の心を静かにかき乱していた。
これは任務の妨げになる。不要な感情だ。
そう自分に言い聞かせれば聞かせるほど、腕の中に残る彼女の驚くほどの軽さと、命の温もりが脳裏に蘇ってくるのだ。
彼はそんな己の心の揺らぎから逃れるように、ただひたすらに書物に没頭していた。
その静かな均衡を破ったのは、一人の訪問者だった。
その日、離れの戸口に、凛とした声が響いた。
「――ごめんください。才蔵様は、ご在宅でしょうか」
その声を聞いた瞬間、才蔵の肩がかすかにこわばった。
忘れるはずもない声。
彼がまだ鬼神と呼ばれていた頃、その隣でいつも花のように微笑んでいた、女の声。
戸を開けると、そこに立っていたのは、やはり綾部桔梗だった。
彼女は上質な絹の着物に身を包み、その美しい顔には憂いを帯びた化粧が施されている。
三年前と何も変わらない姿。いや、むしろ有力武家に嫁ぐことが決まり、その美しさはさらに磨きがかかっているようにさえ見えた。
「……桔梗か。何の用だ」
才蔵は努めて冷たい声を作った。
「まあ、才蔵様。ひどいお顔色……。それに、お痩せになられて……」
桔梗はさも心を痛めているかのように、眉をひそめた。
「あなたがこのような場所にいらっしゃると聞き、心配で矢も盾もたまらず参りましたの」
彼女はそう言うと、才蔵の制止も聞かず、ずかずかと部屋に上がり込んできた。
そして、彼女は見た。
部屋の隅で、息を殺すように座っている、小夜の姿を。
桔梗の動きがぴたりと止まった。
彼女の目に一瞬、鋭い光が宿る。それは自分の縄張りに入り込んできた、見知らぬ雌を見る獣の目だった。
だが、その光はすぐに消え、代わりに慈愛に満ちた聖母のような微笑みが浮かべられた。
「まあ、可愛らしいお方。あなたが、例の……?」
彼女は小夜に近づくと、その顔を覗き込むようにした。
「……白鷺小夜、と申します」
小夜はか細い声で答えた。
「そう。わたくしは綾部桔梗。才蔵様の古くからの知り合いでしてよ。……いいえ、昔は夫婦の約束もしておりましたの」
桔梗はわざと聞こえよがしにそう言った。
その言葉は棘のように、小夜の胸に突き刺さる。
彼女は、この美しく気品のある女性こそが、才蔵の隣に立つにふさわしい人間なのだと悟った。
それに比べて、自分は。ただ忌み嫌われ、利用されるだけの存在。
小夜は自分のみすぼらしさが恥ずかしくなり、俯いてしまった。
桔梗はそんな小夜の様子に満足げな笑みを浮かべると、今度は才蔵に向き直った。
「それにしても才蔵様。幕府も酷いことをなさる。こんなか弱い娘御に、あなたのお世話など務まるはずもありますまい」
その言葉には、小夜への侮蔑と、そして才蔵への憐れみが巧みに織り交ぜられていた。
「わたくしがおりましたら、もっとあなた様のお力になれましたものを……」
彼女はそう言って、才蔵の腕にそっと手を添えた。
その指先の感触に、才蔵の脳裏に捨てたはずの過去の記憶が蘇る。
まだ呪われる前の、光に満ちていた日々。彼女と共に歩んだ、穏やかな時間。
もし、あの日に戻れるのなら。
そんなあり得ない感傷が、彼の心を一瞬よぎった。
その心の揺らぎを見透かしたかのように、桔梗はさらに一歩踏み込んできた。
「……才蔵様。またお会いしに参りますわ。あなたをこのような場所に、一人にはしておけませんもの」
彼女はそう囁くと、最後にもう一度、小夜に勝利者の一瞥をくれてやり、そして風のように去っていった。
後に残されたのは、気まずい沈黙と、そして桔梗が残していった甘い白粉の香りだけだった。
才蔵は何も言わなかった。
小夜も何も言わなかった。
だが、二人の間に生まれたばかりのささやかな繋がりは、その甘い香にかき消され、再び分厚い氷の壁がそびえ立ってしまったのを、二人とも感じていた。