第7話:初めての言葉
第7話:初めての言葉
夜が明けた。
才蔵は、結局、一睡もしていなかった。夜通し小夜のそばに付き添い、彼女の容態を見守り続けていたのだ。
幸い、昨夜のような危篤状態は脱したようだった。呼吸はまだ浅いが、幾分か穏やかになっている。顔色も、紙のような白さから少しだけ人の温かみを取り戻していた。
――あの粥が、効いたのか。
才蔵自身、半信半疑だった。あれはほとんど毒と紙一重の代物だったはずだ。あるいは、ただ彼女自身の生命力が奇跡的に持ち直しただけなのかもしれない。
どちらにせよ、最悪の事態は免れた。
その事実に、才蔵は自分の心の奥底で何かがふっと軽くなるのを感じていた。
それは安堵という感情だった。
任務が継続できることへの安堵か。
それとも、腕の中で命の火が消えかけていた少女が、生き延びたことへの安堵か。
彼はその問いから、意識的に目をそらした。
自分の内面を深く掘り下げるのは、面倒なことだったからだ。
やがて、小夜の長い睫毛が微かに震えた。
そして、その黒い瞳がゆっくりと開かれる。
その瞳はまだどこか焦点が合っていないようだったが、虚ろだった以前とは明らかに違っていた。そこには確かに意識の光が宿っている。
彼女はしばらくぼんやりと天井を見つめていたが、やがて自分のそばに誰かがいることに気づいた。
その視線がゆっくりと才蔵の方へと向けられる。
二人の視線が初めて真っ直ぐに交わった。
小夜の瞳にかすかな戸惑いの色が浮かぶ。
才蔵は、何を言うべきか分からなかった。
「目が覚めたか」
そんなありきたりな言葉は、彼の柄ではなかった。
気まずい沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは、小夜の腹の虫だった。
――ぐう。
静かな部屋に、その情けない音が響き渡った。
小夜の白い顔がさっと朱に染まる。彼女は慌てて布団を頭まで引きかぶってしまった。
そのあまりにも人間的な、そして少女らしい反応に。
才蔵の口元がほんのわずか緩んだのを、彼自身気づいてはいなかった。
彼は立ち上がると台所へと向かった。
そして、昨夜のあの歪な粥を温め直して持ってくる。
その緑色の物体を前にして、布団から顔を出した小夜の目が点になった。
「……これは……」
「粥だ」
才蔵はぶっきらぼうに答えた。
「薬草が入っている。滋養にいい」
小夜はその粥と才蔵の顔を交互に見た。
そして、おそるおそる差し出されたスプーンに口をつけた。
やはり、ひどく不味かった。
苦くて、青臭くて、そして焦げ臭い。
だが、その不味さの奥に、確かにあった。
体を気遣う、優しい味が。
そして何よりも、彼女の空っぽだった胃の腑に、温かい何かが満たされていく感覚。
それは彼女がこの屋敷に来てから初めて感じた、満腹感というものだったのかもしれない。
彼女は一匙、また一匙と、その不味い粥を口に運んだ。
そして椀が空になった時。
彼女は顔を上げ、才蔵の目を真っ直ぐに見て言った。
「……ありがとう、ございます」
それは生まれて初めて彼女が心の底から誰かに伝えた、感謝の言葉だった。
そのか細い、だが凛とした響きに、才蔵の心が不意を突かれたように揺れた。
彼は動揺を隠すように顔をそむける。
「……勘違いするな」
その声は自分でも驚くほど上ずっていた。
「お前が使い物にならねば、俺が困るだけだ。ただそれだけのこと」
彼はそう突き放すように言うと、足早に部屋を出ていこうとした。
その耳が自分でも分かるくらいに赤くなっているのが、恥ずかしくてたまらなかった。
小夜はそんな彼の大きな背中をただ黙って見つめていた。
そして、その唇にほんのかすかな笑みが浮かんだのを、才蔵が知ることはなかった。
二人の間に横たわっていた分厚い氷が、ほんの少しだけ溶け始めた瞬間だった。