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第3話:沈黙の花嫁

第3話:沈黙の花嫁

 祝言の儀は、まるで葬列のように、静かで、厳かだった。

 時任家の屋敷の、最も奥まった一室。陽の光さえ届かぬその場所は、息が詰まるほどに白檀の香が焚きしめられていた。参列者は、蒼馬と、幕府から遣わされた見届け役の役人。そして、時任家の当主である、雛子の父親だけ。母親の姿は、どこにもなかった。

 父親は、終始、能面のような無表情を崩さず、その視線は、一度として、己の娘である雛子に向けられることはなかった。まるで、そこに存在しないものであるかのように、あるいは、一族の恥を、幕府へと差し出す、貢物であるかのように、ただ、冷ややかに、空間を眺めている。


 当の雛子は、白無垢に身を包み、深々と俯いていた。その顔は、分厚い白粉で塗り込められ、血の気というものが、全く感じられない。本当に、精巧に作られた、市松人形のようだった。彼女が、生きているという証は、か細い肩が、微かに、震えていることだけ。

 三々九度の盃事も、ただ、形式的に行われただけ。盃を交わす二人の間に、視線が合うことは、一度もなかった。

 こうして、蒼馬と雛子は、夫婦となった。

 誰にも祝福されることなく、神仏の加護もなく、ただ、政略という名の、冷たい鎖によって。


 その日から、蒼馬の、監視者としての生活が始まった。

 彼らに与えられたのは、時任家の屋敷の、離れの一室。座敷牢、と呼ぶ方が、より正確かもしれなかった。外界から完全に隔離され、食事も、一日に二度、下女が戸口に置いていくだけ。その下女でさえ、決して、二人と、目を合わせようとはしなかった。

 蒼馬は、懐から、真新しい手記と、炭筆を取り出した。そして、記録を始める。

『監視対象A、起床。時刻、日の出より一刻後。臥床時間、およそ五刻。睡眠中の寝返り、三度。うわ言、なし』

 彼の観察は、冷徹を極めていた。

 雛子は、ほとんど、動かなかった。朝、目を覚ますと、ただ、縁側の隅に座り、一日中、庭の苔を眺めている。その、大きな、黒い瞳は、何も、映してはいなかった。ただ、そこにある、というだけ。瞬きの回数は、常人より、明らかに少ない。呼吸も、意識しなければ、しているのかどうかさえ分からないほど、浅い。

 食事の時間になると、彼女は、出された膳の前に、ただ、座る。箸をつけるでもなく、一刻も、二刻も。やがて、蒼馬が「食え」と、低い声で命令すると、彼女は、初めて、壊れた絡繰り人形のように、ゆっくりと箸を動かし始める。だが、その食事は、咀嚼というより、ただ、胃の中に、食べ物を流し込んでいるだけの作業に見えた。味など、感じていないのだろう。

 蒼馬は、その全てを、客観的な事実として、手記に書き留めていく。

『食事量、常人の三分の一。咀嚼回数、極端に少なく、嚥下に時間を要す。食事中の視線、常に虚空を向く』


 ある夜、蒼馬が手記をつけていると、雛子が、小さな声で、何かを呟いた。

 初めて、彼女から発せられた、意味のある言葉だった。

「……なぜ」

 蒼馬は、筆を止め、彼女の方を見た。

「なぜ、私と、祝言を」

 その声は、か細く、感情がこもっていなかった。純粋な、疑問。

 蒼馬は、答える代わりに、問い返した。

「なぜ、それを聞く」

「……分かりません。ただ、あなたが、今まで、私に触れようとした、どの男とも、違う匂いがするからです」

 匂い。

 その言葉に、蒼馬は、わずかに、眉をひそめた。

「どう違う」

「……鉄と、血の匂い。そして、雨に濡れた、土の匂いがします」

 雛子は、そう言うと、また、沈黙の人形に戻ってしまった。

 蒼馬は、彼女の言葉を、そのまま手記に書き留めた。『監視対象A、発話。内容は、当方の匂いに関する、非論理的な感想』と。

 だが、その夜、蒼馬は、なかなか寝付くことができなかった。

 彼女の言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。鉄と、血の匂い。それは、鬼灯衆として、穢れを屠り続けてきた、自分の魂に染みついた匂いだ。

 そして、雨に濡れた、土の匂い。それは、全てを失った、あの日の匂い。

 この少女は、一体、何者なのだ。

 蒼馬は、眠っている雛子の方を見た。

 月明かりの下、彼女の寝顔は、ひどく、幼く見えた。その手首は、折れてしまいそうなほど、細い。時折、長い睫毛が、怯えたように、ぴくりと震える。

 彼は、無意識に、その様子を、手記に書きつけようとした。

 『睡眠中の表情、穏やかならず。何かに怯えている様子』と。

 そこまで書いて、蒼馬は、ハッと我に返った。

 ――これは、任務に必要な情報か?

 違う。これは、ただの、個人的な所感だ。

 彼は、苛立ちと共に、今書いたばかりのその一文を、炭筆で、黒く、黒く、塗りつぶした。

 彼女は、駒だ。監視対象Aだ。それ以上でも、それ以下でもない。

 そう自分に言い聞かせても、胸の奥で、何かが、軋みを上げるような音がした。

 それは、凍てついたはずの彼の心が、ほんのわずかに、揺れ動いた音だったのかもしれない。

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