第20話:本当の始まり
第20話:本当の始まり
どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
才蔵の意識が、ゆっくりと浮上した。
最初に感じたのは、清潔な薬の匂い。そして、自分の体を優しく包む、柔らかな寝具の感触だった。
ゆっくりと目を開ける。見慣れない、だが陽光がたっぷりと差し込む、明るい部屋の天井が視界に映った。
ここは、どこだ。御前試合での、あの地獄のような光景が脳裏に蘇る。
――小夜。
彼は勢いよく身を起こそうとして、全身を走る激痛に顔を歪めた。
呪いは解けていた。だが、大鬼との死闘で負った傷は、彼の体の至る所に深く刻まれている。
「……っ!」
「目が覚めましたか、結城殿」
穏やかな声がして、横を見ると、そこには幕府の医師が立っていた。
「……ここは」
「大老様の屋敷の一室です。あなた様は三日三晩、眠り続けておられました」
三日。その言葉に、才蔵の心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなった。
「……彼女は」
掠れた声で問う。
「白鷺小夜は、どうなった」
医師は答えなかった。ただ、どこか憐れむような目で才蔵を見つめると、静かに首を横に振った。
その仕草だけで、全てを悟った。
間に合わなかったのか。俺は結局、彼女の命を犠牲にして、生き延びてしまったのか。
絶望が彼の心を塗りつぶしていく。空っぽだったはずの器に、熱い鉛のような後悔が流れ込んでくる。
いっそあの時、共に死んでしまえばよかった。
彼は血の味がするほど強く、唇を噛みしめた。
数日後、才蔵は幕府への報告を終えた。
彼の謀反の嫌疑は完全に晴れた。それどころか、御前試合での鬼神の如き戦いぶりと、黄泉比良坂の鬼との因縁が明らかになったことで、彼は再び「英雄」として祭り上げられようとしていた。
桔梗の婚約者であった武家の当主は失脚した。桔梗もまた、家の者によって遠くの寺へと送られたと聞いた。
全てが終わったのだ。だが、彼の心は晴れなかった。むしろ、以前よりも深い闇の中に沈んでいた。
彼は鬼討ち衆への復帰の誘いを断った。そして、あの日全てが始まった、あの離れへと戻ってきた。
そこは主を失い、ただ静まり返っていた。部屋の片隅には彼女が使っていた寝具がきちんと畳まれている。机の上には、山梔子の簪がぽつんと置かれていた。
才蔵はその簪を手に取った。そして、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
涙は出なかった。ただ、どうしようもない喪失感が彼の全身を苛んでいた。
彼女のいないこの世界で、生きていくことに何の意味があるのだろうか。
その時だった。
離れの戸が静かに開いた。
才蔵は顔を上げなかった。どうせまた、幕府の使者だろう。
だが、聞こえてきたのは予期せぬ声だった。
「……ただいま、戻りました」
その声に、才蔵はハッと顔を上げた。
そこに立っていたのは、紛れもなく小夜だった。
彼女は少し痩せたようだったが、その顔色は良く、その足で確かに立っている。
才蔵は言葉を失った。ただ、夢を見ているのかと思った。
「……なぜ」
ようやく絞り出した声は、ひどく震えていた。
「……お前はなぜ、ここに……」
小夜は静かに微笑んだ。
「……分かりません。ですが、気がついたらわたくしは生きておりました。医師の方も奇跡だとおっしゃっていました」
そして彼女は続けた。
「……ですが、わたくしのあの力はもう消えてしまったようです。もう何も視えませんし、何も感じません。ただの普通の娘になりました」
彼女は少し寂しそうにそう言った。だが、その表情はどこまでも穏やかだった。
才蔵はよろめくように立ち上がると、彼女の元へと歩み寄った。
そして、その小さな体を強く、強く抱きしめた。
「……よかった」
彼の肩は微かに震えていた。
「……生きていてくれて、よかった……」
小夜もまた、彼の大きな背中にそっと腕を回した。
やがて、才蔵は体と心を回復させた。
彼は小夜の前に一枚の書状を差し出した。契約解消の書状だった。
「……これで、お前は自由だ」
彼は言った。
「もう誰にも縛られることはない。好きな場所へ行くといい」
だが、小夜はその書状を受け取らなかった。
彼女はそれを静かに押し返すと、才蔵の手を取った。
そして彼女は言った。その瞳には一点の曇りもない澄み切った光が宿っていた。
「――私と、本当の夫婦になってください」
そのあまりにも真っ直ぐな言葉に、今度は才蔵の方が言葉を失う番だった。
彼は動揺を隠せない。
「……だが、俺は呪われ者だ。お前を幸せにできる保証など……」
「いいえ」
小夜は彼の言葉を遮った。
「あなたの呪いはもうありません。そしてわたくしの力ももうありません。わたくしたちは、もう何も持たない、ただの男と女です」
彼女は微笑んだ。
「……だから、ここから始めるのです。わたくしたちの、本当の人生を」
才蔵は彼女の目を見つめ返した。その瞳の中に自分の未来が映っているような気がした。
彼はもう迷わなかった。
彼は彼女の手を強く握り返した。
そして、不器用でぎこちない、彼の精一杯の言葉で答えた。
「……ああ。よろしく頼む」
小夜は涙を浮かべながら、これまでで一番美しい笑顔を見せた。
呪われた武人と、忌み嫌われた娘。
偽りの契約から始まった二人の物語は、ここで終わりを告げた。
そして、ここから二人の本当の人生が始まろうとしていた。
窓の外では、柔らかな春の日差しが、新しい門出を迎えた二人を優しく祝福していた。




