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第2話:偽りの御触れ

第2話:偽りの御触れ

 雨は、いつしか、本降りになっていた。

 資料管理室の、小さな窓を、絶え間なく、雨粒が叩いている。その、単調なリズムが、まるで、時の歩みを、拒絶しているかのようだった。

 才蔵が、書物の、ページを、めくろうとした、その時だった。

 書庫の、重い、扉が、軋みながら、開いた。

 入ってきたのは、幕府大老の、側近である、初老の侍。その、男は、かつて、才蔵の、武功を、誰よりも、讃えていた男だ。だが今、その目に、浮かんでいるのは、あからさまな、侮蔑と、厄介者を見る、色だった。

「――結城蒼馬。大老様からの、お呼び出しだ」

 その声には、何の敬意もこもっていなかった。

 才蔵は、何も答えず、ただ、静かに、立ち上がった。

 また、何か、面倒事の、押し付けだろう。彼は、そう、高をくくっていた。


 雨に濡れた、石畳が、ぼんやりとした、行灯の光を、反射していた。

 才蔵は、侍の後を、ただ、黙って、ついていった。水たまりを、避けることさえせず、その足取りには、生きる意志のようなものが、全く、感じられない。まるで、絞首台へと、引かれていく、罪人のようだった。いや、罪人の方が、まだ、ましだろう。彼らには、少なくとも、己の罪に対する、怒りや、死への恐怖といった、感情があるはずだから。

 今の、才蔵には、それすらなかった。心は、静まり返った、冬の湖面のように、何も、映さない。


 通されたのは、幕府の、中枢、大老の、私室だった。

 部屋の中央には、白髪を、綺麗に、結い上げた、痩身の、老人が、座っている。幕府を、事実上、その掌で、動かしている男、朽木大老。その目は、老齢にもかかわらず、底光りのする、鋭い光を、宿していた。

「……結城蒼馬、か。見る影もないな」

 朽木大老は、値踏みするような目で、才蔵を、頭のてっぺんから、爪先まで、眺めた。その視線は、かつて、彼が、英雄だった頃に、向けられていた、賞賛と期待の色とは、全く違う。まるで、使い古して、刃こぼれのした、道具でも見るかのような、冷たい色だった。

「鬼灯衆の、若き狼も、牙を抜かれれば、ただの、痩せ犬か」

 侮蔑の、言葉にも、才蔵の、表情は、変わらない。彼は、ただ、無言で、そこに、立っているだけだった。

 その、反応が、つまらないとでも、思ったのか、大老は、ふん、と、鼻を鳴らすと、本題を、切り出した。

「貴様に、一つ、機会を、やろう。失墜した貴様が、再び、陽の当たる場所へ、這い上がるための、最後の、機会だ」

 大老は、懐から、一枚の、書状を、取り出すと、才蔵の、足元へと、滑らせた。

「時任家の、娘、雛子。この、娘と、祝言を、挙げよ」

 その言葉に、才蔵の眉が、ほんのわずかに、動いた。

 時任家。古くから、帝側に、仕える、公家の一門だ。幕府とは、決して、相容れない、家のはず。

「……何故」

 数週間ぶりに、才蔵が発した、意味のある言葉だった。

「時任の家には、代々、『夢見』の力が、伝わる。未来に起こる、凶事を、夢で、視る力だ。今、帝都では、幕府転覆を、目論む、不穏分子が、水面下で、蠢いておる。その連中の、動きを、事前に、察知する、手立てが、我らには、必要だ」

 なるほど、と、才蔵は、内心で、合点がいった。

 つまりは、こういうことだ。

 時任家は、その力を、幕府に、利用されることを、恐れ、娘の存在を、隠している。だが、幕府は、その存在を、嗅ぎつけた。しかし、公家である、時任家に、表立って、手出しは、できない。そこで、白羽の矢が、立ったのが、自分だ。

 濡れ衣を、着せられ、全てを失い、飼い殺しにされている、元・鬼灯衆指揮官。

 彼と、時任家の、娘を、偽りの、夫婦として、結びつける。そうすれば、幕府は、体裁を、保ったまま、合法的に、「夢見」の力を、その監視下に、置くことができる。

「貴様の、任務は、時任雛子と、夫婦となり、その生活の、全てを、監視し、彼女が、視た、『凶夢』の内容を、一言一句違わず、我らに、報告すること。そして、その力が、本物か、偽物か、その、利用価値を、冷静に、見極めることだ」

 それは、人道にもとる、あまりにも、非情な、任務だった。一人の、少女の、心を、精神を、土足で、踏みにじり、その能力を、道具として、しゃぶり尽くせと、言っているのだ。

 もし、一月前の、才蔵であったなら、彼は、即座に、この任務を、拒絶しただろう。彼の、矜持が、それを、許さなかったはずだ。

 だが、今の、彼に、矜持などというものは、残っていなかった。

 彼は、ゆっくりと、床の、書状を、拾い上げた。そこには、彼の名と、時任雛子の名が並んだ、婚姻届が、記されている。

 返り咲くための、最後の、駒。

 今の、自分に、残された価値は、それしかない。ならば、その役割を、完璧に、演じきるまでだ。心を殺し、感情を排し、非情な、監視者となりきる。

 かつて、穢れを、屠るために、振るっていた、冷徹さを、今度は、一人の、無垢な、少女に、向けるのだ。

「……拝命、いたします」

 才蔵は、人形のように、無機質な声で、答えた。

 その、返事を、聞いて、朽木大老は、満足そうに、口の端を、吊り上げた。

「よかろう。祝言は、三日後だ。心しておくがいい」


 大老の、私室を、出ると、雨は、いつの間にか、上がっていた。

 だが、空は、相変わらず、分厚い、雲に、覆われたままだ。

 才蔵は、雨上がりの、湿った、土の匂いを、深く、深く、吸い込んだ。

 それは、まるで、これから、自分が、足を踏み入れる、暗く、湿った、心の、墓場の匂いに、よく似ていた。

 彼が、赴くのは、祝言の席ではない。

 一人の、少女の、人生を、監視し、利用し、そして、いずれは、壊してしまうかもしれない、新たな、戦場だった。

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