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第19話:鬼神と、神降ろしの娘

第19話:鬼神と、神降ろしの娘

 御前試合の舞台は、幕府の練兵場だった。

 その中央にしつらえられた試合場で、才蔵と小夜は並んで立っていた。

 観客席には大老を始めとする幕府の重臣たち、そして桔梗の婚約者である武家の当主が、氷のような目で見下ろしている。その隣には、扇で顔を隠した桔梗の姿もあった。

 空気は張り詰め、肌を刺すようだ。

 審判役の侍が、高らかに宣言した。

「――これより、白鷺小夜の『神降ろし』の儀を執り行う! 対するは、瘴穴より捕らえし大鬼、一体! 始め!」

 その号令と共に、巨大な鉄の檻が引き上げられる。

 中から現れたのは、身の丈一丈はあろうかという大鬼だった。その体は鋼のような筋肉に覆われ、その両腕は岩をも砕くという。

 観客席からどよめきが起こった。

 才蔵は眉をひそめた。話が違う。聞かされていたのは中級の鬼のはず。だが、目の前にいるのは明らかに、将軍家の精鋭部隊が総出で当たるべき最上級の大鬼だ。

 桔梗の婚約者の差し金か。最初から我らをここで殺すつもりなのだ。

 絶望的な戦力差。だが、才蔵の心は不思議と落ち着いていた。

 彼は隣に立つ小夜に囁いた。

「……やれるか」

「……はい」

 小夜は短く答えた。その瞳にはもう迷いはなかった。


 大鬼が地響きを立てて突進してくる。

 才蔵は動かなかった。彼はただ静かに目を閉じ、精神を集中させる。

 そして彼の足元から、無数の細い鋼の糸が地面を這い、大鬼の足に絡みついた。昨日彼が仕込んでおいた罠の一つだ。

 大鬼の動きが一瞬止まる。その隙を小夜は見逃さなかった。

 彼女は祈りを捧げ始めた。その小さな体から眩いほどの白い光が放たれる。

 光は才蔵の体を包み込み、彼の呪いの痛みを完全に消し去った。

 ――今だ。

 才蔵は目を開いた。その手にはいつの間にか、杖の仕込み刃が握られている。

 痛みが、ない。体が、軽い。まるで三年前のあの頃に戻ったかのようだ。

 彼は地を蹴った。その動きはもはや人のものではなかった。一陣の風となり大鬼の懐へと潜り込む。そしてその刃を、大鬼の硬い皮膚の隙間、関節の急所へと的確に叩き込んでいく。

 大鬼が苦悶の咆哮を上げた。観客席がどよめく。

 誰もが信じられないという顔で、その光景を見ていた。呪われ、剣を捨てたはずの男が、あの大鬼と互角に渡り合っている。

 だが、才蔵は知っていた。これは小夜がその命を削って生み出した、ほんの束の間の奇跡でしかないことを。

 早く決めなければ。彼女の命が尽きる前に。

 彼は大鬼の首を狙った。だが、その瞬間、大鬼の赤い瞳がぎらりと光った。

 ――遅い。

 大鬼の巨大な拳が、才蔵の体を真横から薙ぎ払った。

 才蔵の体は紙切れのように舞い、試合場の壁に叩きつけられる。

「……がはっ!」

 口から血の塊が飛び出した。骨が何本か折れた感触。意識が遠のいていく。


 その時だった。彼の脳裏に直接声が響いてきた。

 それは地獄の底から響くような、おぞましい声だった。

 ――『思い出せ』

 黄泉比良坂の、あの鬼の声だ。

 ――『お前は我と同じ。人の世から溢れた者』

 その声と共に、才蔵の失われていた記憶が奔流のように蘇ってきた。

 前世の記憶。彼は戦場で非情な殺戮を繰り返した。敵も味方も関係ない。ただ生き延びるためだけに、血の道を歩んだ。そのあまりの業の深さに彼の魂は汚染され、次に転生する時は「鬼」となる運命だったのだ。

 三年前のあの呪いは、彼を苦しめるものではなかった。彼が鬼となるのを防ぐための、最後の楔だったのだ。そして、黄泉比良坂のあの鬼は、自分と同じ魂を持つ半身。だから互いに惹かれ合い、求め合っていたのだ。

 ――『さあ、受け入れよ。その楔を解き放ち、我と一つになるのだ。そうすればお前は真の力を取り戻す』

 鬼の甘い誘惑が才蔵の心を蝕む。

 そうだ、もういい。人間として生きるのは疲れた。この力を受け入れれば、俺はもっと強く……

 彼の意識が闇に飲み込まれようとした、その瞬間。


「――あなたは、鬼じゃない!」


 凛とした声が響いた。小夜の声だった。

 彼女は血の涙を流しながら、それでも必死に立っていた。

 そして彼女は懐から、あのお守り袋を取り出した。

「あなたは、私の光です!」

 彼女は叫び、その守り袋を強く握りしめた。

 次の瞬間、彼女の全身からこれまでにない圧倒的な白い光が放たれた。

 それはもはや神降ろしではなかった。彼女自身の命の輝き、そのものだった。

 その聖なる光は、才蔵の魂を蝕んでいた鬼の因子を浄化し、そして彼の呪われた体に流れ込んでいく。

 痛みが消える。力がみなぎる。だが、これは人の力ではない。

 人として生きることを選んだ彼の魂が、彼女の命を糧として放つ最後の閃光。

 才蔵はゆっくりと立ち上がった。その瞳は赤く燃え上がっていた。

 彼は大鬼を見た。そして一言呟いた。

「……さらばだ。俺の半身」

 次の瞬間、彼の姿は消えていた。

 そして大鬼の巨大な体が、首から崩れ落ちる。

 何が起きたのか、誰にも分からなかった。ただ静寂だけが練兵場を支配していた。


 才蔵はふらつきながら、光の消えた小夜の元へと歩み寄った。

 彼女は糸の切れた人形のように、彼の腕の中に倒れ込む。その顔はひどく安らかだった。

 才蔵は彼女を抱きしめたまま、観客席を見上げた。

 大老も桔梗も、誰もが言葉を失っている。

 彼は勝ったのだ。この不条理な戦いに。

 だが、その代償はあまりにも大きかった。

 彼の腕の中で、愛する少女の命の灯火が、静かに消えようとしていた。

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