第18話:決戦前夜の約束
第18話:決戦前夜の約束
その夜、離れの空気は不思議な静けさに包まれていた。
明日には御前試合。そしてその先には、黄泉比良坂での死闘が待っている。
絶望的な状況であることに変わりはない。だが、二人の心は奇妙なほど穏やかだった。
覚悟を決めた人間の持つ静けさ。もう迷いも恐れもなかった。
ただ、やるべきことをやるだけ。そして、その結末を二人で受け入れるだけ。
その覚悟が二人を強く結びつけていた。
才蔵は机の上で黙々と、御前試合のための準備を進めていた。
市場で手に入れた毒や針、そして鬼除けの香。それらを組み合わせ、様々な仕掛けを作っていく。
正攻法では勝てない。ならば、あらゆる手段を使うまでだ。
その手際はひどく慣れたものだった。前世で彼は、何度もこうして死地へ赴く準備をしてきたのだ。
小夜はそんな彼の横顔を、ただ静かに見つめていた。
彼の指先が作り出す一つ一つの道具。それが明日の彼の命を繋ぐ綱となる。
自分は彼のために何ができるだろうか。
彼女は懐から小さな守り袋を取り出した。自分の髪の毛を入れたあのお守り。
これを彼に渡すべきか。だが、渡せば彼はその意味に気づいてしまうかもしれない。
彼女は迷った。そしてそっと、その守り袋を再び懐にしまい込んだ。
今はまだ、その時ではない。自分にできることは、ただ彼を信じること。そして、いざという時には自らの命を捧げる覚悟を持ち続けること。
それだけだった。
やがて才蔵が全ての準備を終えた。
彼は深く息を吐くと立ち上がった。そして縁側へと向かう。
外は月が美しい夜だった。
小夜も彼の後を追って縁側へ出た。
二人は並んで座り、言葉もなく月を見上げる。
静かな時間が流れた。
先に口を開いたのは才蔵だった。
「……不思議なものだ」
彼はぽつりと呟いた。
「明日死ぬかもしれないというのに。俺の心は今、ひどく穏やかだ」
「……わたくしもです」
小夜も答えた。
「……怖いと、思いませんの?」
「ああ。不思議とな」
才蔵は言った。
「……昔は違った。前の生では、俺はいつも死に怯えていた。自分の死ではない。仲間の死にだ。俺の判断一つで彼らの命が失われる。その重圧が俺を常に苛んでいた」
彼はそこで一度言葉を切った。
そして彼は初めて小夜に、自分の最も深い傷を見せた。
「……そして結局、俺は誰も守れなかった。最後の最後で思考が停止し、目の前で仲間が死んでいくのをただ見ていることしかできなかった。俺は、指揮官失格だ」
その声はひどくか細く、そして罪悪感に満ちていた。
小夜は何も言わなかった。ただそっと、彼の傷だらけの大きな手に自分の手を重ねた。
その小さな手の温かさが、才蔵の凍てついた心をゆっくりと溶かしていく。
「……だから今度こそはと足掻いてきたが、このザマだ」
彼は自嘲するように笑った。
「結局また、お前という守るべき者を死地へと連れていくことになった」
「いいえ」
小夜は静かに首を横に振った。
「あなたは何も間違ってなどおりません」
彼女は彼の手を強く握り返した。
「あなたは私のために戦おうとしてくれました。私を生かすためにご自分の命を捨てようとさえしてくれました。……それだけで十分です」
そして彼女は言った。その声はどこまでも優しく、そして力強かった。
「――今度は、私があなたをお守りします。あなたの背中も、あなたの心も、全て私が」
その言葉はどんな神仏の加護よりも、才蔵の心に深く響いた。
ああ、そうか。俺はずっと一人で戦ってきたつもりだった。だが、違ったのだ。
いつの間にか俺の隣には、こうして共に戦ってくれる存在がいたのだ。
それだけで、もう何も怖くはなかった。
たとえ明日、どんな結末が待っていようとも。この腕の中にある温もりさえあれば。
才蔵は重ねられた小夜の小さな手を、もう一方の手で優しく包み込んだ。
「……ありがとう」
彼は心の底からそう言った。
それは任務でも契約でもない。ただ一人の男と女の魂が、固く結ばれた瞬間だった。
月はただ静かに、そんな二人を見守っていた。
決戦の夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。




