第14話:妻の宣言
第14話:妻の宣言
桔梗が嵐のように去っていった後、離れの部屋には気まずい沈黙が重くのしかかっていた。
才蔵はまだ言葉を見つけられずにいた。
小夜のあの真っ直ぐな言葉と行動。それが彼の心を乱し、そして同時に救ってくれた。
彼女は自分を守ろうとしてくれたのだ。道具であるはずの彼女が。
その事実が彼の胸を熱くする。だが、その感情をどう表現すればいいのか分からない。感謝の言葉か。それとも謝罪の言葉か。
彼が逡巡していると、先に口を開いたのは小夜だった。
「……申し訳ございませんでした」
彼女は深く頭を下げた。
「でしゃばった真似をいたしました」
その言葉に、才蔵は驚いた。
「……なぜお前が謝る」
「……あなたのお心をかき乱してしまいましたから。桔梗様はあなたの大切な方なのでしょう。それなのに、わたくしは……」
彼女の声は消え入りそうにか細かった。
才蔵はようやく理解した。彼女はまだ勘違いしているのだ。自分の心が桔梗にあると。そして彼女は嫉妬からではなく、本当にただ自分を気遣う思いだけであの行動に出たのだと。
そのあまりにも健気な思いやりに、才蔵はどうしようもなく胸を締め付けられた。
彼は初めて彼女の名を呼んだ。
「……小夜」
その声に小夜の肩がびくりと震える。
「……顔を上げろ」
彼女はおそるおそる顔を上げた。その大きな瞳は不安げに揺れている。
才蔵は彼女の目を真っ直ぐに見て言った。
「……礼を言う」
たった一言。だが、それは彼の精一杯の誠意だった。
「……お前が止めてくれなければ、俺はまた過ちを犯すところだった。……ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、小夜の瞳から大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。
彼女は慌てて袖でそれを拭う。
「……もったいないお言葉です」
その声は涙で震えていた。だが、その顔には彼女がこの屋敷に来てから初めて見せる、心の底から嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
その笑顔はまるで冬の終わりに咲く一輪の花のようだった。
才蔵はその笑顔から目を離すことができなかった。そして彼は自分の呪われた運命も任務のことも何もかもを忘れて、ただ願った。
この笑顔を守りたい、と。
だが、そんな二人のささやかな平穏を脅かす影が、すぐそこまで迫っていた。
綾部桔梗は諦めてはいなかった。
才蔵に拒絶され、そして小夜に自尊心を傷つけられた彼女の心は、もはや純粋な愛情ではなく、どす黒い執念に支配されていた。
――あの女さえいなければ。あの得体の知れない小娘さえいなければ、才蔵様はまた私のもとに戻ってきてくださるはず。
彼女は自分の婚約者の力を利用することを決意した。彼女の婚約者は幕府の中でも指折りの実力者。鬼討ち衆にも強い影響力を持っている。
桔梗は彼に涙ながらに訴えた。
「……お願いがございます。私の幼馴染が不吉な力を持つ娘に誑かされております。どうか彼の目を覚まさせてはいただけませんでしょうか」
婚約者は最初は渋っていた。だが、桔梗の美貌と巧みな話術の前に、やがて首を縦に振る。
「……よかろう。だが、ただでは動けん。見返りは分かっておるな?」
その下卑た笑みに、桔梗は一瞬身をこわばらせたが、すぐに媚びるような笑みを浮かべて頷いた。
「……もちろんですわ、あなた様」
彼女は自分の全てを賭けて才蔵を取り戻す覚悟を決めていた。
数日後、離れに再び幕府からの使者が訪れた。
だが、その内容はこれまでのものとは全く違っていた。
「――白鷺小夜に謀反の嫌疑あり。直ちに身柄を拘束し、本庁にて尋問を行う」
その非情な言葉に、才蔵と小夜は息をのんだ。
謀反。あり得ない嫌疑だ。
これは罠だ。才蔵は瞬時に悟った。桔梗の仕業だと。彼女は小夜を罪人に仕立て上げ、自分から引き離そうとしているのだ。
役人たちが小夜の腕を掴もうとする。その瞬間、才蔵が動いた。
彼は小夜の前に立ちはだかり、その唯一の武器である杖を構えた。
「――この女には指一本触れさせん」
その声にはかつての「鬼神」の覇気が宿っていた。
役人たちが怯んで後ずさる。だが、その中の一人が嘲笑うように言った。
「おっと、これは手荒な真似はおやめください、結城殿。我らも好きでやっているわけではないのです。ただ、この娘が無実であると証明すれば済む話」
「……証明だと?」
「ええ。近々行われる御前試合にて、この娘の『神降ろし』の力を大老様や重臣方の前で披露していただく。そしてその力が幕府にとって有益なものであると示せれば、謀反の嫌疑は晴れましょう。……もっとも、失敗すればどうなるか、お分かりですかな?」
それはあまりにも残酷な踏み絵だった。人前で一度も力を制御できたことのない彼女に、幕府の存亡を賭けた大舞台でその力を示せというのだ。
失敗すれば待っているのは死。
才蔵は奥歯を強く噛みしめた。これは桔梗が仕組んだ完璧な罠だった。どちらに転んでも小夜は破滅する。
絶望的な状況。だが、その時、彼の背後からか細い、しかし凛とした声が聞こえた。
「……分かりました。そのお話、お受けいたします」
小夜だった。
彼女は才蔵の背中から一歩前に出ると、役人たちをまっすぐに見据えて言った。
「わたくしのこの力が、夫であるこの方のお役に立てるというのであれば、喜んでお受けいたしましょう」
妻として夫の役に立つ。その一念が彼女の恐怖を打ち破ったのだ。
才蔵は彼女の横顔を見た。その小さな横顔にはもう迷いはなかった。
彼は悟った。もはやこの戦いからは逃げられないのだと。ならば腹を括るしかない。
彼は小夜の隣に並び立つと、役人たちを睨みつけた。
「――いいだろう。だが、一つ約束しろ。もし我らがこの試練を乗り越えたならば、二度と我々の前に現れるな」
その言葉は役人たちに、そしてその背後にいるであろう桔梗に向けた、宣戦布告だった。




