第13話:元許嫁の懇願
第13話:元許嫁の懇願
あくる日、離れの空気は再び変わった。
それは才蔵の変化だった。
彼はもう小夜を避けることをやめた。食事の時も彼女の正面に座り、ぎこちないながらも言葉を交わすようになった。
「……その粥の味付けだが。少し塩を足してみてはどうだ」
「……はい。試してみます」
そんな他愛もないやり取り。だが、二人にとってはそれがかけがえのない時間だった。
才蔵の心の中では、すでに小夜の存在が任務の道具から、守るべき一人の女性へと変わりつつあった。彼はまだその感情の正体に気づいてはいなかったが、彼女と共にいるこの静かな時間がひどく心地よいと感じていた。
このまま時が止まってしまえばいい。そんなあり得ない願いさえ、彼の胸をよぎるほどに。
だが、その穏やかな時間を壊しに来る者がいた。
綾部桔梗。彼女はその日も予告なく、離れを訪れたのだ。
その手には才蔵のための高価な薬や、滋養のつく料理が抱えられている。
「才蔵様、お体の具合はいかがですの?」
彼女はいつものように花のような笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
だが、すぐにその笑みが凍りつく。
彼女は見たのだ。才蔵と小夜が同じ食卓を囲み、まるで本当の夫婦のように穏やかな時間を過ごしているのを。
そして何よりも彼女を苛立たせたのは、才蔵の目だった。
彼が小夜に向けるその眼差し。それは桔梗が今まで一度も見たことのない、ひどく穏やかで、そして慈しみに満ちた色をしていた。
桔梗の心の中で、嫉妬の黒い炎が激しく燃え上がった。
――この女。この得体の知れない小娘が、私の才蔵様を誑かしている。
彼女は努めて平静を装った。だが、その声は微かに震えていた。
「……まあ、お食事中でしたのね。お邪魔だったかしら」
そのあからさまな棘のある言い方に、才蔵の眉がひそめられる。
「……何の用だ、桔梗。用がないなら帰ってくれ」
「つれないことをおっしゃらないで。あなた様のお体を心配して参りましたの」
桔梗はそう言うと、持ってきた料理を机の上に並べ始めた。
「さあ、才蔵様。わたくしが腕によりをかけて作りましたの。どうぞ召し上がって」
それはあからさまな挑発だった。小夜が作った粗末な粥の隣に並べられた、豪勢な料理。どちらがあなたにふさわしいかお分かりでしょう、と言っているかのようだった。
小夜は顔を俯かせ、唇を強く噛みしめる。
才蔵は深いため息をついた。
「……気持ちはありがたい。だが、今は食欲がない。持って帰ってくれ」
明確な拒絶の言葉。その一言に、桔梗の顔から血の気が引いた。
彼女は信じられないという顔で才蔵を見つめた。そして次の瞬間、彼女の大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……ひどい……あんまりですわ、才蔵様……!」
彼女はその場に崩れ落ちるように泣き始めた。
「わたくしがどれほどの思いであなたのことを案じているか、お分かりにならないのですか!」
それはもはや演技ではなかった。彼女の魂からの悲痛な叫びだった。
「わたくしは家ののために好きでもない男と夫婦の約束をさせられました! その男は粗暴で、わたくしのことなどただの道具としか見ておりません! 毎晩悪夢にうなされ、眠れぬ日々を送っておりますのに……!」
彼女は才蔵の足元に縋り付いた。
「お願いです、才蔵様! 私をここから連れ出して! あの地獄から救い出してください! あなただけが頼りなのです!」
過去の約束。そして、愛した女の涙。
才蔵の心は激しく揺さぶられた。自分が呪われなければ、彼女は今も自分の隣で笑っていたはずなのだ。彼女をこんな不幸に陥れたのは、自分のせいでもある。
その罪悪感が彼の判断を鈍らせた。
彼は彼女の肩に手を伸ばしかけた。その時だった。
「――おやめください」
静かな、だが凛とした声が響いた。
小夜だった。
彼女はいつの間にか立ち上がり、まっすぐに二人を見つめていた。その瞳にはもう怯えの色はなかった。ただ、深い深い悲しみの色が浮かんでいるだけだった。
「……あなた様のお苦しみはお察しいたします。ですが、この方を困らせるのはおやめください」
彼女は桔梗に向かって深く頭を下げた。
「この方はもう、あなたの知っている昔の才蔵様ではありません。深い傷を負い、今もなお苦しんでおられるのです。どうかこれ以上、この方の心を乱さないで差し上げてください」
それはあまりにも真っ直ぐな言葉だった。そこには嫉妬も憎しみもない。ただひたすらに、才蔵の体を案じる純粋な思いだけがあった。
その清らかな光の前に、桔梗の歪んだ激情は為す術もなかった。
桔梗は唇を噛みしめ、憎々しげに小夜を睨みつけると、嵐のように部屋を飛び出していった。
残されたのは、才蔵と小夜、そして気まずい沈黙だけだった。
才蔵は何も言えなかった。ただ、自分のために頭を下げてくれた、少女の小さな背中を見つめていた。
そして、彼ははっきりと自覚した。
自分の心が、もはや完全に、この不器用で、そして誰よりも優しい少女に、奪われてしまっているということを。




