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第12話:初めての涙

第12話:初めての涙

 その夜、才蔵は悪夢を見ていた。

 それは三年前の、あの忌まわしい霧の深い夜の記憶ではない。もっと古く、そして彼の魂の根源にこびりついた、前世の悪夢だった。

 硝煙と血の匂い。耳をつんざく銃声と、仲間の断末魔。

 彼は小隊を率いて敵の拠点に突入していた。作戦は完璧なはずだった。彼の立てた計画に、一点の曇りもなかったはずだ。

 だが、敵の反撃は彼の想像をはるかに超えていた。

 罠だ。情報が漏れていたのだ。

 仲間たちが次々と血の花を咲かせて倒れていく。

「――隊長! 退避を!」

「――後は我々にお任せください!」

 部下たちの悲痛な叫びが響く。

 だが、彼の足は動かなかった。恐怖に竦んだのではない。あまりにも膨大な戦況の情報を、彼の頭脳が処理しきれずに停止してしまったのだ。

 どうすればいい。どうすれば一人でも多く生かして、ここから脱出できる。

 最適解を探す彼の思考が、無限のループに陥る。

 その思考停止の一瞬が、全てを決めた。

 目の前で、最後の部下が敵の凶弾に倒れた。その若い部下は、最後に彼の方を向き、何かを言おうとして、そして力なく崩れ落ちた。

 守れなかった。また、守れなかった。

 俺はいつだってそうだ。大事なものが手のひらからこぼれ落ちていくのを、ただ見ていることしかできない。

 絶望が彼の心を塗りつぶしていく。

「……う……ううっ……」

 才蔵の体は寝床の上で激しく震えていた。

 その額には脂汗がびっしりと浮かび、その口からは苦しげな呻き声が漏れている。

「……すまない……ゆるしてくれ……」

 彼は誰にともなく謝罪の言葉を繰り返した。


 その様子に最初に気づいたのは小夜だった。

 彼女は自分の寝床で眠れずにいた。桔梗の言葉が棘のように心に刺さったまま抜けないのだ。

 そんな彼女の耳に、才蔵の苦しげな声が届いた。

 彼女ははっとして身を起こした。そして、彼の寝床へと歩み寄る。

 月明かりに照らされた彼の顔は、苦悶に歪み、まるで迷子の子供のように心細げだった。

 いつも彼がまとっている冷徹な鎧はどこにもない。そこにいたのはただ、深い傷を負った一人の弱い男の姿だった。

 小夜は、どうすればいいのか分からなかった。

 ただ、彼女はほとんど無意識に、濡れた布を手に取り、彼の額の汗をそっと拭ってやった。

 その冷たい布の感触に、才蔵の表情がわずかに和らいだように見えた。

 だが、悪夢はまだ続いている。

 彼の口から新たなうわ言が漏れた。

「……さ……よ……」

 その言葉に、小夜の心臓が大きく跳ねた。

 今、彼は確かに自分の名を呼んだ。

「……どこだ……どこにいる……」

 彼は悪夢の中で自分を探しているのだ。

 なぜ。どうして。

 小夜は混乱した。だが、それと同時に、胸の奥底から温かい何かがこみ上げてくるのを感じていた。

 彼は自分を必要としてくれている。たとえそれが夢の中のことであっても。

 その事実が彼女にとってどれほどの救いであったか。

 彼女は彼の手をそっと握った。その手は汗でじっとりと濡れていた。

「……ここにおります」

 彼女は囁いた。

「わたくしはここにおりますから。……だから、もう泣かないでください」

 彼女の頬を、一筋の涙が伝った。

 それは彼への憐れみの涙ではなかった。自分と同じように深い孤独と痛みを抱えている、この不器用な男へのどうしようもない愛しさが生んだ涙だった。

 彼女はその夜、一睡もせず彼の手を握り続けた。そして、彼のうなされる背中を優しく撫で続けた。


 翌朝、才蔵が目を覚ました時、悪夢の名残はどこにもなかった。

 ただ、久しぶりに深く眠った後のような、不思議な安堵感が体を包んでいた。

 彼はゆっくりと身を起こした。そして気づいた。自分の手が誰かの小さな手に握られていることに。

 見ると、彼の寝床の脇で、小夜が座ったまま眠りこけていた。

 そのあどけない寝顔。その頬に残る乾いた涙の跡。そして、自分の手を固く握りしめたままの、その小さな手。

 才蔵は全てを悟った。

 彼女は夜通し自分を看病してくれていたのだ。悪夢にうなされる自分を一人にしないようにと。

 彼は言葉を失った。

 そして初めて、はっきりと認識した。

 この少女は駒ではない。道具でもない。ただ、守らなければならない存在なのだ、と。

 彼の心の最も深い場所で、何かが音を立てて変わった。

 それは彼が二つの人生を通して初めて抱いた、守るべき者への純粋な愛情の芽生えだった。

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