第11話:私の役目
第11話:私の役目
その夜から、離れの空気はまた変わった。
氷が完全に溶けたわけではない。だが、二人の間にはもはや壁は存在しなかった。
小夜は甲斐甲斐しく才蔵の世話を焼いた。
一日三度の食事。それは相変わらず見た目も味も褒められたものではなかったが、彼女の懸命さがこもっていた。そして毎晩欠かさず、彼の背中の傷に新しい薬を塗り替える。
才蔵はそんな彼女の献身を、ただ黙って受け入れていた。
「礼は言わん」と口では言いながらも、彼が差し出す椀はいつも綺麗に空になっていた。
そのささやかな事実が、小夜にとってはなによりの喜びだった。
自分は彼の役に立っている。自分は彼に必要とされている。
その確信が、心を閉ざしていた彼女に少しずつ光を与えていった。
彼女の顔に微かだが表情が戻り始めた。時折、才蔵の不器用な言動に、くすりと笑うことさえあった。
その小さな変化を、才蔵は気づかないふりをしていた。
だが、その変化が自分の荒みきった心を癒していることにも、彼は薄々気づき始めていた。
この穏やかな時間が続けばいい。
彼は柄にもなく、そんなことを願っていた。
だが、運命はそんな二人のささやかな平穏を許さなかった。
数日後、桔梗が再び離れを訪れたのだ。
彼女は才蔵の傷の具合を見舞うという名目でやってきた。だが、その本当の目的は別のところにあった。
彼女は見たのだ。才蔵の小夜に向ける眼差しが、以前とは明らかに違うものになっていることを。そして、小夜の顔に生き生きとした表情が戻っていることを。
桔梗の美しい顔が、嫉妬の炎で微かに歪んだ。
この得体の知れない小娘が。自分の知らない間に、才蔵様の心を奪おうとしている。
許せない。
彼女は才蔵が席を外した隙を見計らって、小夜に近づいた。
そして、氷のように冷たい声で言った。
「……少し、いいかしら、小夜殿」
その声にはもう、慈愛の仮面はなかった。
「あなた、少し思い上がっているのではないかしら。才蔵様のお世話をしているくらいで、自分が彼の妻にでもなったおつもり?」
小夜は何も言い返せなかった。
「勘違いしないで。あなたはただの任務の道具。そして才蔵様はあなたを利用しているだけ。彼の心があるのは昔も今も、このわたくしよ。あなたのような娘が入り込む隙間など、どこにもないの」
その言葉は毒矢のように、小夜の心を射抜いた。
そうだ、自分は道具だ。この穏やかな日々にうつつを抜かして、その事実を忘れかけていた。
小夜の顔から血の気が引いていく。
その様子に満足げな笑みを浮かべると、桔梗はとどめを刺した。
「……近々また参りますわ。今度はあなたを驚かせるようなお話を持ってね」
彼女はそう不吉な予告を残して去っていった。
一人残された小夜は、ただ呆然としていた。
心の中に再び冷たい氷の壁が築かれていく。
自分はやはり彼の隣にはいられないのだ。この偽りの関係が終われば、自分はまたあの暗い座敷牢へと戻される。あるいは、任務の果てに鬼の餌食となって果てるか。
どちらにせよ、自分に未来などない。
絶望が彼女の心を黒く塗りつぶしていく。
だが、その闇の中で一つの小さな光が灯った。
――あなたの背中を守ります。
自分が彼に誓った、あの言葉。
そうだ、自分は彼の背中を守ると決めたのだ。たとえ自分がどうなろうとも。彼だけは守り抜かなければならない。
たとえ彼の心が桔梗様にあったとしても、構わない。
自分にできることは、それしかないのだから。
小夜の目に涙が浮かんでいた。だが、その瞳にはもう絶望の色ではなかった。
そこにあったのは、愛する人を守るためならば、自らの全てを投げ打つ覚悟を決めた、女の強く、そして悲しい決意の光だった。
彼女はそっと懐から小さな守り袋を取り出した。中には彼女の髪の毛が一房入っている。
それは神降ろしの一族に伝わる、古のおまじない。自らの命脈の一部を捧げることで、持ち主をあらゆる災いから守るという。
彼女はその守り袋を強く握りしめた。
そして、いつかこれを彼に渡す時が来ることを、静かに覚悟していた。




