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第一話:呪(まじな)われの英雄

第一話:まじなわれの英雄

 墨の匂いが、肺腑まで染みついていた。

 古びた紙が放つ乾いた匂い、書物を蝕む紙魚のかすかな気配、そして、日の光を忘れた壁土の、湿った匂い。幕府・鬼討ち衆の資料管理室。その、薄暗く息の詰まるような片隅で、橘才蔵は、もはや自分の体の一部となったその匂いに、ただ身を浸していた。

 ここが、今の俺の、世界。

 日の光さえろくに届かぬこの場所は、墓場によく似ている。そして、今の自分には、それこそがふさわしい、と彼は思っていた。


 三年前まで、彼は、こんな場所にいる人間ではなかった。

 鬼討ち衆最強と謳われた、若き部隊長。その剣技は、まるで舞うように美しく、そして、獣のように荒々しかった。一体で、一個小隊に匹敵するとまで言われた大鬼を、たった一人で屠ったこともある。仲間たちは、彼を畏怖と尊敬を込めて「鬼神」と呼んだ。その双肩には、幕府の、そして、この国の民の、平穏がかかっていると、誰もが信じて疑わなかった。

 ――過去形だ。

 全ては、あの、忌まわしい、霧の深い夜を境に、終わった。

 西国に出現した、最難関の瘴穴。その最深部で、彼は、一体の、異形の鬼と対峙した。人の言葉を解し、呪詛を操る、古の大鬼。死闘の末、才蔵は、その首を刎ねた。だが、その代償は、あまりにも大きかった。

 鬼が、その断末魔に、放った、最後の呪い。

 それが、彼の魂に、深く、深く、喰らいついたのだ。

『――汝、二度と、刃を、その手に、すること能わじ』

 その日以来、彼が、刀を握れば、骨が軋み、肉が内側から引き裂かれるような、地獄の苦しみが、全身を貫くようになった。

 剣士としての、才蔵は、死んだ。


 以来、彼は、この、資料管理室という、墓場に、いる。

 かつての部下たちは、時折、憐れむような、あるいは、腫れ物に触るような、視線を、彼に向ける。上官たちは、もはや、使い物にならなくなった、かつての英雄を、厄介者として、持て余している。

 前世――現代日本の、特殊部隊員であった記憶を持つ彼は、そんな周囲の、分かりやすい、反応を、ただ、冷ややかに、受け流していた。

 人の、評価など、風のようなものだ。状況が変われば、すぐに、その向きを変える。そんな、不確かなものに、心を、揺さぶられるだけ、無駄だった。

 彼は、感情という、面倒な、部品を、己の中から、取り外して久しい。

 怒りも、悲しみも、そして、絶望さえも。それらの感情は、思考の、ノイズにしかならない。


「――才蔵殿」

 背後から、若い、同僚の声がした。

 今年、配属されたばかりの、まだ、目の輝きを、失っていない、青年だ。その実直そうな顔立ちが、かつての、自分と、どこか重なって見え、才蔵は、わずかに、眉をひそめた。

「……茶でも、いかがですかな。少し、良い葉が、手に入りまして」

 気遣うような、声。

 だが、その、声の奥には、憐れみの色が、透けて見えていた。

 ――可哀想な、人だ。

 ――かつては、あれほどの、英雄だったというのに。

 その、声なき声が、才蔵の、逆鱗に、触れた。

 彼は、書物から、目を、上げることもなく、短く、言った。

「……いらん」

 その、一言で、室内の、空気が、凍りついた。

 青年は、怯えたように、肩を、震わせると、「し、失礼しました!」と、慌てて、その場を、立ち去っていく。

 残されたのは、静寂と、そして、埃の舞う、光の筋だけ。

 才蔵は、深く、息を、吐いた。

 この、生ぬるい、同情が、呪いの、痛みよりも、彼の、心を、蝕むのだ。

 同情されるくらいなら、いっそ、憎まれた方が、ましだった。軽蔑された方が、ずっと、楽だった。

 いっそ、あの、三年前の、戦場で、鬼と共に、果ててしまえば、よかったのかもしれない。そうすれば、少なくとも、「英雄」のまま、死ぬことができた。

 そんな、詮無いことを、考えながら、彼は、再び、古文書の、ページを、めくった。

 その、死んだような、日々に、終わりが、近づいていることなど、まだ、知る由も、なかった。

 ただ、窓の外で、降り始めた、冷たい雨の音だけが、彼の、心を、静かに、撫でていた。

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