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TSMC社員(新竹拠点からの脱出体験)

次に記録するのは、2027年の台海軍事衝突時にTSMC(台湾積体電路製造)新竹拠点に勤務していたプロセスエンジニア・許 昱仁シュー・ユーラン氏(当時32歳)の証言である。彼は最先端EUVラインの維持保全業務を担当しており、3月18日の攻撃開始直後に施設閉鎖と脱出を経験している。この証言は、世界の半導体供給網が現場でどのように脆弱性を露呈したかを示す生々しい記録である。



PTFインタビュアー

「許さん、TSMC新竹ファブでの勤務中に衝突が始まったとのことだが、その瞬間、現場では何が起きていたのか?また、脱出までの経緯を詳しく聞かせてほしい。」


許 昱仁(TSMC・プロセスエンジニア):

「3月18日午前4時すぎ、緊急アラームが鳴った。最初は地震かと思った。だが、直後に社内インフォネットが“Level 5 Shutdown”を通達。これは“全設備の冷却停止とガス供給遮断”を意味する最高警戒レベルだった。EUV露光装置はクリーンルーム内で稼働中だったが、冷却液を止めれば1時間で深刻なダメージを受ける。我々は数十億ドルの装置を“眠らせる”ボタンを押した。それが最後だった。その後、社外との通信は完全遮断。衛星ネットもVPNもダウンし、外の状況が全く見えなかった。工場に残っていたのは技術者約70人。食料と水は48時間分しかなかった。

最も恐ろしかったのは、“自分たちが政治の人質にされるかもしれない”という空気だ。」




PTF(補足質問):

「最終的に脱出できたのはいつ、どういったルートだったのか?また、その過程で見たものや感じたことがあれば聞きたい。」


許 昱仁:

「脱出は3月20日深夜。TSMC社内の危機管理チームから“高優先帰宅勧告”が出た。我々は7人ずつに分かれて、社員のEVミニバンで夜間出発した。GPSは使えず、運転手は“紙の地図”を使っていた。


途中、竹南インターの検問で一度拘束された。軍の臨時検問所だった。『TSMCの者だ』と伝えると、“ああ、あなたたちは通していい”と言われた。その言葉で悟った。国家はもう、TSMCの社員を“資産”として扱っていたのだと。

台中に着いたのは午前3時過ぎ。避難施設に着くなり、米軍の民間連絡員から『すぐに米本土への一時移送準備を』と告げられた。それが、我々が“ただの技術者ではなかった”という証拠だったと思う。個人的には、あの時期に自分が生き延びた理由は1つしかない。“自分たちがEUVラインのカギを握っていた”から。命の価値すら、ナノ単位のパターンで測られる時代だと痛感した。」



この証言は、地政学と技術覇権が個人の身体に直結した瞬間を端的に物語っている。

TSMCという企業の存在は、戦略資源として“軍事目標ではなく政治対象”となった。

その内部にいた者の視点は、戦争と経済の境界線の曖昧さを証明している。

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