自衛隊・南西方面派遣隊として与那国島通信拠点に展開していた通信将校
次に記録するのは、2027年の台海衝突時に自衛隊・南西方面派遣隊として与那国島通信拠点に展開していた通信将校・永田 彰吾一等陸尉の証言である。
彼は当時、日米共同作戦における電子戦・通信防護の中核オペレーターの1人だった。
PTF:
「永田さん、2027年3月の台湾海峡危機に際して、与那国島での任務の実情を聞かせてほしい。開戦直後の通信環境、そして作戦指示系統はどのように機能していたのか?」
永田 彰吾(一等陸尉・自衛隊南西方面通信担当):
「開戦が確認された2027年3月18日午前4時、我々の施設には即時待機命令が下った。
まず最初に行ったのは、全衛星リンクのシールド強化。
これは中国側が発信した電磁ジャミングの波を、どれだけ初動で遮断できるかが勝負だった。
与那国島から台湾本島まではわずか110キロ。
だが通信線は、物理的距離以上に“政治的干渉の迷路”だった。
我々は日米共同コード“Resonant Echo”に基づいて、NSA経由の暗号ルートを用い、台湾軍の第3通信中隊と接続を確立。
DPR(データ防御優先順位)コードの一致に22分を要した。
この遅延が、戦術的に命取りになる恐れがあった。
現場は静かだった。爆音も銃声もない。
だが、電子の空間だけが激戦区になっていた。文字通り、見えない“弾”が空を飛んでいた。」
PTF(補足質問):
「通信が命綱となる中で、日米協調と自衛隊独自判断のバランスはどうだったか?現場から見て、政治と現実のギャップは感じられたか?」
永田 彰吾:
「感じた、というより“覚悟した”と言った方が正確かもしれない。
日本政府は当初、“直接介入ではない”という建前を堅持していたが、現場では既に事実上の前線通信指令所として稼働していた。
米側は迅速だった。沖縄嘉手納基地からは、開戦当日中に第95電子戦航空中隊のUAV中継機が与那国の上空に入った。あれで“もう戻れないな”と思った。
政治が何を言おうと、我々には“信号が届く限り命が救える”という現実があった。
結果的に、台湾側の海軍通信隊が3月22日に壊滅した後も、与那国経由で一部の指揮伝達が継続された。その通信線の先に、生き延びた市民がいたと信じている。」
この証言は、日本が公式に戦闘に関与しなかった中でも、実質的に“通信戦の前線”を担っていた事実を明確に示している。
また、自衛隊と米軍の関係性、そして“政治の言葉と現場の現実の乖離”が極限状態でどう交差したかを映し出していた。