2027年3月の台北から台中への避難民となった一般市民
次は2027年3月の台北から台中への避難民となった一般市民であり、
当時小規模な衣料雑貨店を営んでいた張 忠澤氏(46歳)の証言を記録する。
彼の証言は、「非武装・非政治的立場からの台海衝突体験」として貴重な記録となっている。
PTF:
「張さん、衝突が始まったあの日、あなたは台北でどのような状況にあり、何を感じていたのか?」
張 忠澤(元・台北市内衣料店経営者):
「最初の爆音が聞こえたのは、ちょうど朝の仕入れに出る準備をしていた時だった。家が揺れて、窓の外に黒煙が上がった。ニュースは止まり、スマホは“圏外”。車もバイクも道路から消え、人だけがバックパックを抱えて歩いていた。私の店も、その日の午後には強制閉店。電気も冷蔵もPOSも全部死んだ。
だけど、もっと怖かったのは“沈黙”だ。誰も叫ばない、泣かない。みんなが、“本当に始まったんだ”って顔をして、目だけで合図していた。3月20日、子供と妻を連れて台中に向かった。道路は渋滞で、移動に16時間かかった。途中、トンネル内で通信が一瞬だけ戻り、LINEで母と連絡が取れた。それが唯一の希望だった。」
PTF(補足質問):
「避難先の台中では、どういう暮らしが始まったのか?また、地域社会の対応には何を感じたか?」
張 忠澤:
「台中では“避難所”というより“共同体”が自然にできた。たとえば、私は避難先の小学校で“衣類配給担当”になった。古着や備蓄品を集めて、名簿に沿って配る。それが自分の役割だった。子供たちは廊下で絵を描いていた。“飛行機が落ちてる絵”ばかりだった。最初は泣きそうになったけど、3日後には近所のパン屋が無料で炊き出しを始めて、そこから雰囲気が少しずつ変わった。人間って、役割があると生きやすいんだと感じた。誰かにとって必要とされているだけで、“国がまだ残ってる気がする”。台北に戻れたのは衝突から41日後。でも、あの41日で私の人生は完全に変わった。もう、ただの店主じゃない。“都市ごと戦争をくぐり抜けた市民”になったと思っている。」
張氏の証言は、
「都市市民が“国家機能不在”の中でどう自律し、再起していったか」
の生きた記録である。