表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/45

2027年3月の台北から台中への避難民となった一般市民

次は2027年3月の台北から台中への避難民となった一般市民であり、

当時小規模な衣料雑貨店を営んでいた張 忠澤チャン・チョンゾー氏(46歳)の証言を記録する。

彼の証言は、「非武装・非政治的立場からの台海衝突体験」として貴重な記録となっている。


PTFインタビュアー

「張さん、衝突が始まったあの日、あなたは台北でどのような状況にあり、何を感じていたのか?」


張 忠澤(元・台北市内衣料店経営者):

「最初の爆音が聞こえたのは、ちょうど朝の仕入れに出る準備をしていた時だった。家が揺れて、窓の外に黒煙が上がった。ニュースは止まり、スマホは“圏外”。車もバイクも道路から消え、人だけがバックパックを抱えて歩いていた。私の店も、その日の午後には強制閉店。電気も冷蔵もPOSも全部死んだ。

だけど、もっと怖かったのは“沈黙”だ。誰も叫ばない、泣かない。みんなが、“本当に始まったんだ”って顔をして、目だけで合図していた。3月20日、子供と妻を連れて台中に向かった。道路は渋滞で、移動に16時間かかった。途中、トンネル内で通信が一瞬だけ戻り、LINEで母と連絡が取れた。それが唯一の希望だった。」


PTF(補足質問):

「避難先の台中では、どういう暮らしが始まったのか?また、地域社会の対応には何を感じたか?」


張 忠澤:

「台中では“避難所”というより“共同体”が自然にできた。たとえば、私は避難先の小学校で“衣類配給担当”になった。古着や備蓄品を集めて、名簿に沿って配る。それが自分の役割だった。子供たちは廊下で絵を描いていた。“飛行機が落ちてる絵”ばかりだった。最初は泣きそうになったけど、3日後には近所のパン屋が無料で炊き出しを始めて、そこから雰囲気が少しずつ変わった。人間って、役割があると生きやすいんだと感じた。誰かにとって必要とされているだけで、“国がまだ残ってる気がする”。台北に戻れたのは衝突から41日後。でも、あの41日で私の人生は完全に変わった。もう、ただの店主じゃない。“都市ごと戦争をくぐり抜けた市民”になったと思っている。」



張氏の証言は、

「都市市民が“国家機能不在”の中でどう自律し、再起していったか」

の生きた記録である。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ