2027年当時の新光医院(台北市)の副院長
次に、2027年当時の新光医院(台北市)の副院長であり、衝突初期における医療対応の中心人物であった林 芷儀氏の証言を収録する。
PTF:
「林医師、2027年の台北における衝突直後、医療現場では何が起きていたのか?特に初動48〜72時間の状況を教えてほしい。」
林 芷儀(新光医院・副院長):
「結論から言えば、“医療システムは崩壊寸前だった”。それは病床の問題ではなく、“情報と交通”の問題だった。ミサイルの直撃はなかったが、電力遮断とネットワーク寸断で、我々は患者のカルテにもアクセスできず、病院が孤島化していた。麻酔薬や血液バッグ、抗生剤の在庫も不明。外部との連絡は紙メモとバイク便に戻った。医学生が“伝令兵”になり、医師は自分の記憶だけで処置を判断していた。3月19日深夜には、基隆からの重傷搬送が一気に増えた。一晩で112人の急患が集中し、ICUは廊下まで溢れた。死因の多くは“止血の遅れ”と“ショック症状”。でも、それ以上に問題だったのは、精神的崩壊だった。人々は“助かるか”よりも、“まだ国家が存在しているのか”を尋ねてきた。…医者としての限界を感じた時間だった。」
PTF:
「医療体制はその後、どう持ち直していったのか?再起の鍵は何だったと考える?」
林 芷儀:
「3月22日、政府が“防衛都市医療連携令”を発令し、台中〜台北の医療ネットワークが統合された。重要だったのは“都市間の物資トンネル”、つまり軍用EVによる高速物資搬送が開始されたこと。また、衛星経由の簡易通信端末が各病院に配布され、ここで初めて“指示系統”が再確立された。それまでは“誰が決めるのか”さえ不明瞭だった。指揮が戻ること。それだけで医療の現場は劇的に変わった。ただ、それでも犠牲者の声は忘れられない。ある看護師が言っていた。『私たちは命を救ったかもしれないけど、“希望”はまだ戻ってきていない』と。」
林医師の証言は、インフラの崩壊と精神的な真空状態が、戦時医療においていかに重くのしかかるかを如実に示している。