経済産業省 半導体戦略室補佐官
次に記録するのは2027年3月以降、TSMC新竹ラインの“沈黙”によって、突如として日本国内の
半導体政策中枢に急激な国際的圧力が殺到した渦中で、その最前線に立たされた経済産業省・半導体戦略室の補佐官、古田 千尋氏(当時42歳)による記録である。
彼女は、対米・対欧・台湾側技術交流の実務窓口とされていた人物であり、
TSMC喪失直後に各国からラピダスおよび日本政府に向けられた
「代替機能を即時担え」という要求と、国内現場(千歳・三重・熊本等)との間に生じた摩擦・断絶の“翻訳不能地帯”に最も深く立ち会っていた。
PTF:
古田補佐官、TSMCが沈黙した2027年3月〜5月の間、
あなたの部署にはどのような要求や圧力が届いていたのでしょうか?
古田 千尋(経産省・戦略室補佐官):
“要求”ではありませんでした。あれはもう、“前提が変わった”という通達の連続でした。
3月19日、米国から最初の直接連絡がありました。
文面にはこうありました:
“TSMCラインの停止により、米国内数十社が生産停止の恐れ。
Rapidusにおける短期シフトの可能性を含む供給再設計計画の提案を要請する。”
……これは、“できるかどうか”ではない。
“もう、日本がやるものとして動いている”という、事後的な割当てでした。
さらに、EUからも類似の動きが始まりました。
特にASMLとの部材・露光機再供給ルートに関する“暗黙の誘導”がありました。
つまり、“オランダ製装置の主要納入先として日本を再指定する動き”。
これは政治的に見ると“信頼”の表れかもしれません。
しかし、“実際に何かを渡される前に期待だけが転送された”という点で、
国内の実装現場は凍りつきました。
PTF:
「それに対して、国内の技術者や工場側はどう反応しましたか?」
古田 千尋:
「“間に合わない”ではなく、“理解されていない”という反応でした。
たとえば、千歳工場の設計班からこう言われました:
“我々はまだ“土台を固めている最中”です。
なぜ“空を飛べ”とだけ言われているのか?”
技術者たちには、“国が現場の進捗を勘違いしている”と見えた。
でも実際は、“国際連携の枠組みが、もう“ラピダスありき”で回り始めていた”。
……つまり、“技術的現実”と“外交的現実”が完全に交差しないまま、
同じ地図の上で重ねられてしまった。」
PTF(補足):
「それは、実務者として“翻訳不可能”だった、ということでしょうか?」
古田 千尋:
はい。
私は“通訳”でした。外交と技術の。
でもあの時は、“何も話さずに約束された計画”と、
“何も約束されていないのに求められた成果”を、同じテーブルに並べろと言われた。
国際会議の中では“やる気はあるか?”と訊かれ、
国内会議では“なぜ急に降ってきた?”と責められる。
……私は、“誰も嘘をついていないのに、全員が食い違っている”という
地獄のような2ヶ月間を生きていました。
PTF(最後に):
TSMC喪失後、日本は“半導体の代替軸”として機能できたと思いますか?
古田 千尋:
できたかどうかは、“作るもの”ではなく、“間に合わせるもの”になってしまった時点で、
もう問えない構造でした。
私たちが求められたのは、“存在することで信用されること”。
でも技術者たちは、“動かすことでしか信用されない”。
それは絶対にすり合わない。
あのとき、TSMCが沈黙したことで、日本は“未完のまま正解にされてしまった”。
それが一番重かった。
この証言は、外交と技術、政策と現場という“連携されているようで断絶している層”のあいだで、
国家が“まだ動いていない何か”に過剰な役割を押し付けた構造を映し出す記録である。
古田千尋は嘘をつかなかった。
だが、“全員が誤解を持ったまま、動き始めてしまう回路”を止めることはできなかった。




