航空自衛隊岩国基地・地上整備群の運用幹部
次に記録するのは、2027年の台海軍事衝突において、山口県・岩国基地(在日米海兵隊および空軍共同運用基地)を中継拠点として使用した米軍および自衛隊の“実戦直前支援活動”の実態、その中でも特に、兵站・電子偵察・緊急機材集積が密かに行われた“グレーゾーン運用”に関する現場証言である。
証言者は、当時岩国基地に勤務していた航空自衛隊・地上整備群の運用幹部である齋藤 元哉2等空佐(当時42歳)。彼は、日米共同の戦略物流部隊の一部として、沖縄および南西諸島方面への“表に出ない装備移送”と“米軍機出撃前の整備・搬送支援”を指揮していた人物である。
PTF:
「齋藤空佐、2027年の台海戦争において、岩国基地は公式には“直接関与しない支援拠点”とされていましたが、実際には多数の戦略物資と機体が通過したと記録されています。開戦直後、基地では何が行われていたのか?」
齋藤 元哉(二等空佐・航空自衛隊 岩国基地勤務):
「岩国は“静かな心臓”のような場所でした。騒がず、照明も抑えられていた。でも、戦争の血液が一番通っていたのはここです。3月18日午前6時時点で、基地には第1波空中給油機(KC-135)と電子戦支援機(EC-130)の編成が増援として到着。これらは沖縄方面への転送前に、岩国で“整備・搭載・燃料補填”という全前処理を行っていました。
また、重要だったのは“デュアルマスク貨物”。これは見た目は通信部材や燃料部品だが、実際には台湾側地上部隊とリンク可能な戦術制御中継機材で、米側からは“気象観測支援機器”として記録されていました。だが、積載先は沖縄嘉手納・那覇基地、そして与那国島。岩国から運ばれたそれらが、戦闘の意思表示でなく“連携の無言の証明”になっていたのです。」
PTF:
「岩国は本土の中でも“民間空港に近く、政治的に注目されやすい場所”でもありました。
その中で、自衛隊としてどこまでの関与が許容され、逆に“線引きされた”部分はあったのでしょうか?」
齋藤 元哉:
「はい、岩国は“合法的に関与しない”ことを前提に、実質的には関与していた場所でした。自衛隊としては“米軍機の整備支援”という名目のもと、出撃機の滑走・搭載・補機点検までをフルでサポートしました。だが、航空機の行き先や任務内容には“アクセスしない”ことが明文化された規定として存在しており、私たちは“任務を知らずに協力する”という意図的な情報非対称構造の中にいました。一方で、内部では“我々は関与していない”という空気は皆無でした。誰も言葉にはしなかったが、整備員も輸送員も、“この機体の向こうに台湾がある”とわかっていた。それはある意味、“沈黙による作戦参加”でした。」
PTF:
「今、振り返って岩国という拠点は、戦争全体の中でどんな役割を果たしていたと思いますか?そして、そのときあなた自身が抱えていた葛藤があれば教えてください。」
齋藤 元哉:
「岩国は、“発砲せずに支える最前線”でした。我々は爆撃も射撃もしない。だが、撃つ者たちが飛び立つ“最後の地面”を支えていた。その重さは、報道や戦果とは別の意味で、歴史に刻まれるべきだと思います。
個人的には、あの3月に見た滑走路の風景を忘れることはありません。午後4時過ぎ、F/A-18が編隊を組んで離陸していくときの静けさ。全員が見送りながら、声を出さなかった。それは命令じゃなく、“行き先を知っていた者の沈黙”だったと思います。あれが私にとっての戦争の記憶です。」
この証言は、2027年の台海衝突において、「戦争に参加しない」とされた日本本土の基地が、実質的にはいかに深く“戦場を後方支援していたか”を裏付ける重要な記録である。
岩国という“本土最後の中継点”の静かな役割は、弾を撃たない戦争参加の典型例として、戦後の安全保障研究において再評価され続けている。




