中華統一促進党系の保守派議員
次に記録するのは、2027年台海衝突以前から台湾立法院において一貫して「和平統一論」を唱え、中国本土との経済・政治的接近を主張してきた親中派議員、高 文傑氏(当時62歳)の証言である。
彼は中華統一促進党系の保守派議員として、2010年代後半以降も中国大陸との直接交渉チャンネル維持を主張し続けた数少ない人物であり、2027年の軍事衝突をもって、その政治的立場は一時的に社会的非難の的となった。
しかし、高氏は衝突後も一貫して“台湾は戦場にされるべきではなかった”という主張を撤回していない。
この証言は、戦争によって最も激しく揺さぶられた“台湾内部のアイデンティティと政治的分断”の実相を浮かび上がらせる。
PTF:
「高議員、2027年3月の軍事衝突を経て、あなたの立場は国内で大きく批判されました。
しかし、あなたは今もなお“中国との和平的接近が唯一の道だった”と主張している。
開戦直前の台湾国内の空気と、あなた自身がどのような覚悟を持っていたのかを聞かせてください。」
高 文傑(台湾立法院・親中派議員):
「私は裏切り者とは呼ばれても、嘘つきではない。
2027年初頭、台湾の議会はすでに“戦争を止める言葉”を持っていなかった。
与党も野党も、“備えろ”“立ち上がれ”という声ばかりで、
“話そう”という言葉は嘲笑の対象になっていた。それが事実です。
私は2月28日の立法院閉会後、北京と水面下で最後の接触ルートを持っていました。
相手は軍部ではなく、対台窓口の統戦部系の幹部。
彼らの言葉はこうでした。
“最後通牒ではない。だが、機は熟した。政治が動かなければ、軍が秩序を作る”――
私はそれを“開戦警告”と受け取り、総統府に非公式に伝えた。
だが、すでに信じてくれる者は誰もいなかった。私の声は“敵の代弁者”として扱われた。
そして、18日未明、あの第一波が来た。」
PTF(補足質問):
「その後、議会内外からあなたに対して激しい非難と辞職要求が突きつけられた。
あなたはなぜ議員辞職を拒否し、政治の場に留まり続けたのか?」
高 文傑:
「簡単なことです。“戦争を選ばなかった者の席”も議会には必要だったからです。
私が言っていたのは“降伏”ではない。“取引と統合のラインを捨てるな”ということだった。
だが一発目のミサイルが飛んだ瞬間、世論は一色に染まり、
“親中=内通者”という空気が数日で政治を焼き尽くした。
私は事実上の議会孤立状態となり、与党・野党のどちらからも発言権を削られました。
だが、私は議場に毎日座った。
なぜなら、“対話が消えた瞬間から国家は戦場になる”という教訓を、誰かが体現し続けなければならなかったからです。」
PTF(追加質問):
「今、振り返って“あなたの和平論は敗北だった”と考えるか?
もし2027年初頭に戻れたなら、何を変えたか?」
高 文傑:
「私の和平論は、敗北ではない。“失敗させられた”のです。
対話が機能しなかったのは、武力よりも先に、信頼を築く時間を我々が怠ったからです。
2027年に戻れたとして、私が唯一変えるなら、
もっと早く、もっと多くの若者に、“和平とは無力ではない”と伝える言葉を育てておくこと。
政治家の声明ではなく、街角の会話として残すことです。
それがなければ、戦争はまた、別の時に別の形で戻ってくる。」
この証言は、2027年の軍事衝突が、外からの圧力以上に“台湾内部の政治的対話空間”を破壊したこと、
そして親中派=裏切り者という単純図式の中で、“対話を模索した者”までもが排除された構造を明示している。
高議員のような人物の存在は、一枚岩ではない“戦中の台湾社会”の実像を示す、不可欠な証言の一つである。