防衛省・統合幕僚監部 南西方面有事即応体制構築担当者
次に記録するのは、2027年台海軍事衝突時に防衛省・統合幕僚監部(Joint Staff Office)に所属し、作戦運用部情報課にて南西方面有事の即応体制構築に関与していた自衛隊一等空佐・村瀬 篤氏(当時47歳)の証言である。
村瀬氏は、与那国島・石垣島・宮古島に展開した陸・空・電子戦部隊の運用連携および、日米共同作戦の調整実務に直接関わっていた中心人物の一人であり、この証言は、日本の“介入しない体制の中で、どこまで現実対応が可能だったか”というジレンマの極地を語るものである。
PTF:
「村瀬空佐、あなたは2027年の台海衝突に際し、統合幕僚監部の作戦部において南西方面の防衛即応体制に関わっていたと記録されている。
まず、開戦の報に接した瞬間、自衛隊内部はどのように動き、どのような即応判断が下されたのか?」
村瀬 篤(自衛隊・統合幕僚監部 一等空佐):
「3月18日午前4時7分、台湾でのミサイル発射と同時に、我々の統合指揮システム“C4ISR-K”に異常輻射アラートが複数検出された。
沖縄・与那国・下地島のレーダー施設から同時通報が上がり、即応レベルがDEFCON-2相当に引き上げられた。
この段階での最初の判断は、“日本が直接攻撃されていない中で、いかに情報戦と防空監視を維持するか”。
実際には、与那国・宮古には既に電子戦中隊と空自移動式警戒レーダーが前進展開済みだったため、命令系統を整えるのが先だった。
問題は、“行動の範囲”だった。我々には自衛隊法上、台湾への直接的な支援介入権限がない。
だが、南西空域の戦術データリンクにおいて、米軍のE-3やP-8が飛び交う中、日本の空自情報も事実上“共用状態”にあった。
この時点で、“建前と実態のギャップ”が自衛隊内でも明確になっていた。」
PTF(補足質問):
「政治判断のもとで“非介入”の原則が維持されていた中、自衛隊現場ではどのような対応が実際に取られていたのか?また、部隊側の心理状態は?」
村瀬 篤:
「現場は非常に冷静だったが、内心は、線の内側で拳を握ったまま待機している感覚だった。
与那国島の電子戦分遣隊からは、“台湾北部の通信遮断が激化している、レーダー透過干渉の対応余地はある”との報告があった。
だが我々はそれに対して、“積極的干渉は行わず、観測と記録を継続せよ”という形で返した。
“できるが、やらない”という判断を何度も下すことは、精神的に非常に重かった。
部隊側では、**“今この瞬間、日本が動かなければ後で後悔する”**という感覚を持っていた若い指揮官も多く、
ある三等陸佐は私にこう言った。
『これはもう憲法の話じゃない。島の向こうで人が死んでる。自衛隊が黙って見てる意味があるんですか?』
私自身も答えられなかった。
だが組織として、あくまで**防衛出動ではなく“周辺事態対応”**という法的立場に従わざるを得なかった。」
PTF(追加質問):
「その後、政府内の対応や日米間の連携はどう変化していったのか?また、結果として自衛隊は“実質的に何をした”のか?」
村瀬 篤:
「3月20日以降、米側から“情報通信の回線安定化支援”を名目に、与那国島からの衛星中継を使用した通信復旧回線が台湾第5軍通信司令部と接続された。
これは政治的には“災害時の通信協力”という形式だったが、実質的には防衛連携のデータリンク再構成であり、
自衛隊はこの中継管理を担当していた。
つまり、“通信線を握った”のだ。
また、空自の早期警戒機(E-767)は南西空域の航空管制に極めて重要な役割を果たし、
3月21日には台湾空軍機の退避ルート調整を“非公式な航法支援”という形で行った。
戦闘こそしなかった。だが、“戦場の後ろから、手を差し出していた”ことは間違いない。
自衛隊が“何もしていなかった”というのは、誤った認識だ。」
この証言は、2027年の台海衝突において、日本が表向き“非関与”を貫きながらも、実際には軍事・通信・監視の中枢機能で深く組み込まれていた構造を暴き出している。
村瀬空佐が語るように、「見ているだけ」の裏で、静かに動かされた現場の意思決定は、戦後の自衛隊法制や国際戦略評価にも大きな影響を残した。