米インド太平洋軍(USINDOPACOM)所属の情報将校
次に記録するのは、2027年の台海衝突に際し、米インド太平洋軍(USINDOPACOM)所属の情報将校として台湾防衛作戦の前線調整に関与していた人物、カイル・J・モンロー少佐(Kyle J. Monroe)の証言である。
彼はハワイ・パールハーバーの情報統合作戦センター(JIOC)を中継点とし、沖縄嘉手納基地から展開した電子偵察部隊と台湾軍の“限定リンク”を調整していた実務中枢の1人だった。
PTF:
「モンロー少佐、2027年の台海衝突時、あなたは米インド太平洋軍の情報部門で現地作戦支援に関わっていたと記録されている。
まず、開戦直前の“米軍の実情”と“台湾との非公式連携”について教えてほしい。」
カイル・J・モンロー(米インド太平洋軍・情報統合作戦少佐):
「Yes. 我々が“既に知っていた”のは事実だった。
SIGINT(通信傍受)とIMINT(画像情報)から、2027年3月7日には“作戦決定フェーズ”に入った兆候を完全に捉えていた。
だがホワイトハウスの方針は明確だった。
“直接介入せず、間接支援で抑制”――これが原則だった。
そのため、我々は台湾軍とは“暗黙の情報リンク”という形での協調を取ることになった。
たとえば、E-3 Sentry(早期警戒機)が収集した空域データは、直接送信せずに“匿名チャネルを通じた数値マトリクス”として変換し、台湾軍の対空指揮システムに流した。
これは事実上の“間接共闘”だったが、政治的には“何もしていない”という建前が保たれた。」
PTF(補足質問):
「つまり、米軍は実質的に“情報戦の裏方”として台湾を支援していたわけだが、それによって戦局にどんな影響が生じたと評価しているか?」
カイル・J・モンロー:
「明確に言おう。
我々の情報提供がなければ、台湾北部の制空権は初日で完全に失われていた。
特に、新竹上空の“空中封鎖回避ルート”を台湾空軍に示したのは、嘉手納発のRC-135S電子偵察機が記録した敵のレーダーブラインドゾーンの動的変化だった。
加えて、南西諸島からの電子妨害支援(Project TEMPEST)により、解放軍の通信網の一部に最大27分の断絶が生じ、これが第1波空挺降下の遅延に繋がった。
これは決定的だった。台湾側が西部空港の滑走路閉鎖を間に合わせたのは、この“27分の猶予”のおかげだ。」
PTF(追加質問):
「米軍内部では、“台湾防衛の限界”についての議論もあったとされている。あなた自身はこの介入形式について、どのように捉えていたか?」
カイル・J・モンロー:
「現場の将校たちの間では、“あれは介入だった”という共通認識があった。
ただし、政治の言葉で語ると“介入ではない”。これが最もストレスフルな二重性だった。
私自身は、情報士官として“命を救うリンク”を握っていたという責任を感じている。
だが同時に、爆撃に晒される都市を“モニター越しに見ているだけ”という無力感もあった。
私たちは戦っていた。だがそれは、“見えるが触れられない戦争”だった。」
この証言は、2027年の台海衝突において米国が“公式には関与しないまま、実質的に関与していた”構造の裏側を明確に示している。
情報戦・電子戦・心理戦を通じた支援は、戦闘機の派遣よりも深く、静かに戦局を動かしていた。
モンロー少佐の回想が示す通り、この戦争は“政治と現実のズレ”によって形を変えながら進行していた。