6.目覚めてそれから
嚙み痕で愛を語るシリーズと同じ世界観の作品です
それから更に、三日が経って、さすがにフェリクスも毎日睡眠をとるようになった頃、医師に揺り動かされて、起こされた。アンリが目覚めたのだと言う。慌ててベッドの側に駆けつければ、かろうじて目が開いているという状態で、話すのもゆっくりだ。
動いているアンリを見て心底ほっとして、手を握る。
「アンリ」
名前を呼べば、アンリの視線だけが、こちらをそっと見て相手を確かめるようにうろうろと視線を彷徨わせた。良く見えるように顔を近づけてやると、ようやく、フェリクスだとわかったようだった。
「アンリ、悪かった」
ごめん、と、今までのことと、身体を張って護らせてしまったことを謝ると、アンリは少しだけ口元を緩めた。
目が覚めたアンリは、身体の不調を訴えていたものの、食事を睡眠をきちんと取るにつれて、徐々に体調が戻って来たらしい。朝起きて、ベッドからは起きないものの、本を読んで一日中過ごしている。
しばらくは無理をするなと医者に言われていた。フェリクスは様子見がてら、引き続き仕事の殆どを寝室でこなしていたら、ある日、アンリが起き上がってベッドから降りて歩こうとするものだから、慌てて側へと向かう。
「おい、無理するなって言われてるだろ」
「フェリクス様、散歩に連れて行ってください。さすがにそろそろ退屈なので」
「……わかった」
アンリの顔を見れば、それが何を言っても引かない時の表情だったので、諦めて付き添う事にする。
外に出るとまた狙われるかもしれないから、という理由で、寝室からは少し遠い、別館を目指すことにした。あまり人に使われていない教会があるのだ。
リハビリがてら、歩きたいというアンリの手を引いてゆっくりと歩く。アンリと手を繋ぐのはこれが初めてだった。幼い頃には手を引いた覚えがあるが、物心ついてから、こうして触れ合うのは、ダンス以外では初めてだ。
「……辛くないか」
「はい」
ゆっくりとした足取りのアンリは、どこかふわふわとしている。
以前のように、テキパキと動いて、理路整然と話をするアンリではない。随分長い間寝ていたせいもあるが、どこか雰囲気が変わっている。
教会へたどり着くと、礼拝用の椅子に二人で腰かけた。
王城は広くて、この教会までもそれなりに距離があり、歩いて十五分ほど掛かった。
「疲れただろ」
「……そうですね。体力が随分落ちたみたいで」
聞きたい事が山ほどある。どうしてフェリクスを狙った弾の前に飛び込んだのかとか、何故、すぐに防護魔法を展開できたのかとか、感情を殺すように言われたのは本当なのかとか、そう、色々、話をしたいと思っていた。
(けど)
「アンリ」
「はい」
「…………俺は、アンリが、幸せになるならそれが一番いいと思ってる」
二人しかいない空間で、息を呑む音だけが聞こえた。
顔は合わせられなかった。両手で顔を覆って、俯いたまま話をする。
「王妃教育を受けたからとか、オメガだからとか、そんな事は考えなくていい。アンリが、したくない事ならしなくてもいい。王妃なんか、ならなくたっていい」
「……それは」
「現実的じゃないって言うんだろ。けど、お前が王妃をやりたくないなら、そうしていい。お前が決めたことで、面倒なことが起きても、全部俺が責任を取る」
薄暗い教会の中は、ひんやりとしていた。
ここには二人を邪魔するものは何一つない。アンリの親も、王も王妃もいないのだ。
アンリには既にディートリンデが首謀者の疑いで拘束されている事を伝えている。
きっと、その状況を考えれば、アンリは王妃になろうとするだろう。けれどそういう、責任感を背負って欲しいわけではない。
両手を顔から離して、アンリの方を向く。
傷が癒えずに寝ていた間、青白い顔をしていたが、少し血色が良くなってきた。
二人の間に置かれてたアンリの手に、手をそっと重ねる。
「……アンリが、嫌ならやめたっていい。けど、……俺の事が好きで、俺の側にいたいというなら、それなら、側にいて欲しい。王妃としてじゃなくて、その前に、俺の伴侶として、俺に愛されて欲しい」
これが、これこそが、ずっと、フェリクスが言いたかったことだ。
王太子との婚約で、いずれ王妃になることありきで、そういうのじゃなくて、ただ、フェリクスに愛されて、愛して欲しい。
戸惑うアンリの表情をじっくりと観察する。
見ていればわかりやすいぞ、とニコラスが言うように、自分にもわかるだろうか。
「愛してる」
今更だと言われるかもしれない。けれど、他の誰かを側に置いたところで、結局のところずっと、フェリクスは、アンリに振り向いてほしかった。フェリクスだけを想って欲しかった。
「…………あ、」
珍しく、アンリが言い淀んでいた。目をうろうろと彷徨わせて、返答を考えているらしい。ぎゅ、と強く手を握ると、アンリの肩がびくりと大きく揺れた。
耳が赤くなってる。きっと、その胸元に耳を当てれば大きく脈打ってるのかもしれない。握りしめた手が汗をかいていた。
(……なんだ)
ニコラスが言ったとおりだった。
よく見てれば、アンリの気持ちが見えてくる。
「アンリ」
答えを迫るように距離を縮めると、アンリは後ずさった。
「む、……むりです」
「何が」
顔を近づけて、アンリの額に額を押し付ける。いつもは鋭い視線を投げかけてくる、琥珀色の瞳が、ゆらゆらと揺れていた。
「……もう無理、私はもう、貴方の隣にいられない」
「……なぜ」
握りしめていたアンリの手が、くるっと返されて、逆にフェリクスの手が握られる。
「あの日、あ、貴方がいなくなるかもしれないと思って、……っ、怖かった。貴方が狙われてるのが見えた時、こわくて、……感情的になりました。気がふれてしまいそうだった。本当ならもっと早く飛び出して貴方を護るべきだったのに、怖くて、足が竦んで、動けなくて、……かろうじて、間に合いましたけど、……冷静でいないといけなかったのに、」
ぼろぼろとアンリの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「こ、怖かった……」
そう言ったアンリの身体を思わず抱きしめた。
子どもの頃のように泣きじゃくって、震えが止まらないアンリの背中をゆっくりと撫でてやる。優しく、そっと何度も繰り返し撫でる。
「悪かった」
しゃくりあげて、言葉が紡げないらしい、アンリの顔を覗き込むと、すっかり頬が紅潮して、鼻水が出て、顔がグチャグチャだった。それを見て思わず笑ってしまう。
「……冷静でなくたっていい、泣いたって、怖くて動けなくたっていいよ」
「でも、それじゃあ……」
こんな事で動揺するようじゃ王妃には相応しくない、と、真剣に言うものだから、その言葉を遮るようにして言葉を続ける。
「愛してる。アンリ、笑ってなくたって、笑ってたって、泣いてたって、もう何だっていい。どんなアンリだって、いい。俺はお前が可愛くて仕方がない」
そう言って唇をそっと、アンリの薄い唇に押し付けると、驚いたのか涙がピタッと止まった。もう一度触れて、離れて、触れてを繰り返しているうちに、アンリの両手が、フェリクスの顔を押し返した。
「…………あの、もう、その辺で」
「答え待ってるから、ちゃんと考えて」
押し付けられた掌にもキスをして、アンリの目を見つめると、見た事がないくらいに真っ赤になってしまって、それがかわいくて思わず笑ってしまった。