キツネとタヌキの化かし合い
鸕野讚良皇女が厠へ行く際に必ず行っていた呪いと呼ばれた行為を全くしなくなったのです。
「どうなさったのかしら? 皇女様。
あの変なお歌を歌われながら、変な踊りをなさりながら
厠へ行かれていたのに……。」
「そうよね。最近は静かに厠へ向かわれているわ。」
「本当にそう! あの『♪厠ぁ~ か・わ・やぁ~♪』を
聞かなくなって久しいわ。」
「そうよね………。」
「……姉上様の大田皇女様のご逝去が大きいんじゃないかしら?
仲が良いご姉妹でいらっしゃったもの…。」
「そうね。大田皇女様がご逝去されてから、大海人皇子様も
お静かよね。」
「そうそう。その通りです。人から聞いた話ですけれど、ね。
お妃さまの元へ訪れられることが減ったんですって……。
それも、お一人だけでなく多くのお妃さまの元へ通われなくなったの。」
「それは、私も聞いたわ。」
「お二人とも御気を落とされておいでなのね。」
「そうね……。」
「そう思えば、あの呪い…… 鸕野讚良皇女様が再びなさったら
その時は、御心が楽になられたということなのかしら?」
「そうよね。一日も早く、そんな日が訪れてくれると嬉しいのだけれど…。」
「そう思うわ。」
「私もよ。」
夫の大海人皇子の舘は天皇の居住する舘に次いで広大な敷地で、その敷地内に全ての妃の建物があります。
その妃の元へ通う回数が減ったのです。
大海人皇子にとっても、鸕野讚良皇女にとっても、大田皇女の死は大きかったのです。
女孺たちの噂を鸕野讚良皇女は知りません。
厠へは女孺だけではなく舎人も付いてきました。
随分後で知ったことなのですが、厠での暗殺があったそうです。
それで、女孺だけではなく護衛を任されている舎人も付いて来ているのだそうです。
この頃は、そんなことを知りませんでした。
暗殺を恐れて……ではなく、姉の死が大きかったのです。
姉が残した大海人皇子との二人の幼子が、父・天智天皇の元で暮らしていることは不安でした。
父が祖父にした事が忘れられないのです。
もし、父の教育を受けたら、大津皇子は謀反を考えるかもしれません。
それを回避したいのです。
そして………舎人の雄鹿が居ることも………。
このまま雄鹿が父の傍に居たら、父が亡くなった後、彼はどうなるのか……が心配でした。
もし、父の息子・大友皇子の舎人になったら、彼は壬申の乱で亡くなる可能性が高くなります。
それだけは回避したいのです。
回避したいことが多く……一度、父に会うべきではないかと考えました。
一応、夫婦なのだから夫には会いに行くことを伝えました。
許可を取るではなく、会いに行くことを伝えたのです。
そのために、大海人皇子の居住している一角に向かいました。
前もって向かうことを伝えておかねばならないのに、それを忘れてしまっていました。
「急に、どうした鸕野。」
「大海人皇子様にお伝えしたくて参りました。」
「伝えるとは………?」
「天智天皇のお許しを得ましたら、参内いたします。」
「私の許しは得ないのか?」
「必要でございましたか?」
「………何をしに行く。」
「ご挨拶をさせて頂くだけでございます。」
「挨拶?」
「はい。」
「……………何を考えているのだ。」
「さぁ、如何に思われます?」
「それは私が聞いている。」
「大伯皇女と大津皇子に会わせていただくためでございます。」
「会ってどうするのだ?」
「健やかに育って欲しいと願っております。姉の残した子らには……。」
「誠にそれだけか?」
「他に何がございましょうか。」
「……………天智天皇には?」
「お許しを得たいと既に申し出ております。」
「では、許しが出れば行くのだな。」
「はい。」
「夫の許しを得ずに参内する妻など、私は知らぬぞ。」
「ご懸念には及びません。」
「うん?」
「今、大海人皇子様は目にしておられます。
お目の前にその妻はおります。」
「は・は・は………っ…。そなたという女は……。」
「では、お伝えいたしたいこと……お伝えいたしましたので失礼いたします。」
男性として夫を慕ったことが無いので楽なのです。
いつも思うのは、夫婦の会話ではなく、キツネとタヌキの化かし合い……のような会話なのです。
さぁ……… 次は魔王との対面です。
祖父を死に至らしめた魔王・天智天皇、鸕野讚良皇女の父親との対面。
魔王にどのように対峙しようか………それを考えている頭の中に……あの人の面差しが浮かび上がってきました。




