大田皇女
天智天皇7年 668年。
この年、姉・大田皇女が病死しました。
夫・大海人皇子の嘆きは大きくて、それほどまでに姉を愛していたのか……と、鸕野讚良皇女は思いました。
姉の所での夫はのんびりと過ごしていたようです。
政治の話など皆無だったそうです。
姉の優しさ、大らかさに……その心に……夫は癒されていたのでしょう。
数多居る妃の中で、夫の心を捉えて離さなかったのは、姉だったのかもしれないと思ったのです。
姉・大田皇女は、祖母・斉明天皇そして叔母・間人皇女とともに葬られました。
姉が亡くなって、残された子ども大伯皇女と大津皇子は、母親・大田皇女の父である天智天皇が引き取りました。
二人が居なくなって急に舘が寂しくなりました。
ただ………父・天智天皇が祖父にした事を思い出すと、その父の元へ姉の子どもが行ったことは心配でもありました。
私は父・天智天皇の所へ行きたいと思いました。
それは、二人の幼子を案じての気持ちだけではなかったのです。
「会いたい…一目姿を…遠くからでも…」と願う相手が天智天皇の近くに居るのです。
「舎人の雄鹿に……会いたい!」
そのことだけでした。今の心を捉えて離さないのは………。
「哀しいことに私は香澄ではなく、鸕野讚良皇女なのだ。」という事実が重く圧し掛かります。
夫ある身であるだけではありません。
その夫は天皇の弟であり皇弟と呼ばれ、今は父・中大兄皇子即位後天智天皇になってからは皇太子なのです。
皇太子になった大海人皇子の妃の鸕野讚良皇女が、夫以外の男性に想いを寄せるなど……あってはならないことなのです。
⦅夫婦だけど……草壁を身籠ってから一度も体に触れていない夫なのに……
草壁は6歳なんですけど……ね。
第一……政略結婚ですし…… 大海人皇子様も妃と思ってなかったりして……
夫婦なんだろうか? 私と大海人皇子様って……何なのだろう?⦆
⦅でも……夫婦なのよね。
雄鹿に会いたいと願う気持ちを持つこと、遠くからでも一目……と
願ってしまうこと……これって心の不倫?
ああ~~~~っ! 不倫大嫌いな私が心の不倫………!
嫌だ―――っ! ……… けど、心は………思うようにいかない………。
心の中だけ……許して欲しい……な………。
大海人皇子様はいっぱい妃がいるじゃない!
もう夫婦じゃないんだから……心だけ自由にさせてよ。⦆
初恋の人に似ている………それだけでこんなにも心乱されるとは思いも寄りませんでした。
雄鹿は父・天智天皇の舎人です。
舎人は皇族に仕える者。
天智天皇の舎人である雄鹿は、天智天皇の護衛、身辺のことなどをしているのです。
常に天智天皇の傍に居るのだろうと……いうことだけは分かります。
フッと溜息を吐き、ぼんやりと過ごす時間が増えました。
見捨てられていたかのような夫婦の時間が急に訪れたのは、姉の死から随分経ってからでした。
「息災か?」
「はい。お蔭をもちまして。」
「うん。良かった。」
「如何なさいました?」
「うん?」
「御出でになられましたので………。」
「うん。大田が身罷り、そなたも寂しいのではないかと思うた。」
「それは、お心遣い深謝申し上げます。なれど……
お気を落とされたのは皇子様も……同じではありませんか。」
「そうだな……。」
「今宵お越しになったのは、姉のことを語りたいからではありませんか?」
「うん。……その通りだ。」
「何をお話すれば宜しいのでございましょうか?」
「幼き頃のことなど……話してくれまいか。」
「はい。私の覚えていること全てをお話申し上げます。」
「うん。頼む。」
香澄は、鸕野讚良皇女の古い記憶を引き出すように大田皇女の幼い頃の想い出を話しました。
大海人皇子は、静かに聞いていました。
そのような一夜を過ごして、夫・大海人皇子は帰って行きました。
他の妃では話せなかったのでしょう。
指一本触れること無いままに、ただただ大田皇女への想いを……大海人皇子のその姿を見るだけで充分感じられました。
⦅政略結婚だったのに、姉上様だけは違ったのね。
妃の中で一番、皇子様の心を捉えていたのね。
姉上様………。
皇后になるのは姉上様だったのに………。
私はそう思うわ。⦆
大海人皇子に話した大田皇女のこと………思い出して話すうちに姉を失った悲しみが胸に広がっていきます。
⦅あぁ~、鸕野讚良皇女はお姉さんが好きだったのね。⦆
優しくておおらかで穏やかな大田皇女を妹の鸕野讚良皇女は大好きだったのだと………。
鸕野讚良皇女の頬を一筋の涙が落ちていきました。
身罷る=亡くなる