あかねさす紫
天智天皇7年 668年。
天智天皇が蒲生野に遊猟に出かけたときに、額田王が皇太子・大海人皇子に「茜指す紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」と歌い、「紫の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」と大海人皇子が返歌をした……あの………あの蒲生野での遊猟が今日なのです。
もう朝から香澄 いいえ 今は鸕野讚良皇女です。
鸕野讚良皇女は心が浮き立って仕方がありません。
朝から「♪厠ぁ~ か・わ・やぁ~♪」でスキップだけではなく……
歌ってしまったのです。しかも……繰り返し……。
「♪あかねさすぅ~ むらさきのゆき しめのゆき♪」と……
侍女の視線を感じて「ヤバっ!」と思った時は、遅かったのです。
「皇女様、如何なさいましたか?」
「な……なんでも…ないわ。」
「左様でございますか?」
「ええ……大丈夫よ。問題ないわ。」
⦅ヤバい!! 歌ちゃ駄目なのに……やっちゃったわよ。
うぅ~~~ん。 他の歌にしようかなぁ~。⦆
蒲生野に到着して、今か今かと待っている時に………
やっと、その時が訪れたのです。
宴が開かれて、歌を歌います。
額田王の番になりました。
⦅待ってましたぁ~! いよぉ~ 額田王!!⦆
美しい声が響きます。
「茜指す紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
そして、大海人皇子の返歌が続きました。
「紫の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」
⦅いよぉ~っ! ご両人!!
宝塚歌劇団のあの舞台の……あの場面が……今、目の前にぃ~!⦆
⦅あれっ? なんか変?!⦆
そうなのです。視線を絡ませるとか全くなく………。
父・天智天皇も笑顔です。
⦅あれっ?⦆
大海人皇子は酒をガブっと飲み干して、槍を手にしました。
⦅来た! 来たよぉ~~っ!⦆
天智天皇の前に槍を突き刺したのです。
⦅来た―――っ! ザ・修羅場! 待ってたよぉ~!⦆
槍を突き刺しても、天智天皇は舞台のような言葉を発しません。
⦅あれっ? 言わないの? 怒鳴らないの?
大海人~!!って怒鳴らないの?⦆
三人とも平静でした。
それが、何故なのか全く分からずに居ました。
その時に……目が合ったのです。
一人の舎人と……
「嘘っ!」
「どうなさいましたか? 皇女様」
それに答えずに舎人に近づきました。
近づけば近づくほどに似ていることを知るのです。
初恋の人に……とても似ていると……心臓が煩く鼓動を打ち続け、それが大きくなっていくのです。
「貴方は?」
「鸕野讚良皇女様!! 」
「貴方は? 誰?」
膝をついて答えました。
「私は天智天皇にお仕えしております。
舎人の雄鹿と申します。」
「雄鹿……雄鹿……というのね。」
「はい。何でございましょう? 鸕野讚良皇女様。」
「あ………あの…… なんでも無いのよ。
お仕事中にごめんなさい。」
「そのような……勿体ないことでございます。」
幾度も幾度もその舎人の名前を心の中で繰り返しました。
「雄鹿……雄鹿……。」と…………。
その間も頭を深く下げたまま上げてくれない雄鹿。
身分が違うから……と……今のこの身を呪いました。
大海人皇子の妃であるこの身を………。