雄鹿への想い
香澄は記憶で分からない部分があること、前世と思っていた記憶が何か分からないことの恐怖を感じていましたが…………。
その恐怖とは別の感情を自覚したのです。
それは、あの「飛鳥」での体験が事実だったと確信してから、香澄の気持ちの中に「雄鹿への想い」が大きくなっていたことでした。
「初恋の人」……先輩よりも………。
もう二度と会えない、会うことが叶わない人でした。
何をしても想い出すのは、雄鹿でした。
草壁を見殺しにしてしまったことを悔やんでも悔やみきれない、自分を許せない……。
そんな日々でも、それを隠して過ごさねばならなかったあの頃。
そんな鸕野讚良皇女、否、香澄に「泣いても良い。」と言ってくれて、抱きしめてくれた雄鹿………。
あの両の腕の中で、声を上げて、幼子のように泣いた時の………。
雄鹿の温もり……香澄は忘れられないのです。
友達に「好きな人見つけたら?」と言われても、「彼氏を作りなよ。」と言われても、誰のことも目に入らなくなっていました。
勿論、誰も香澄を好きになってくれないのかもしれません。
ただ、今の香澄は遠く隔たった雄鹿の面影を胸に秘めて過ごしているのです。
あの「飛鳥」に行く前の香澄は、先輩を恋い慕っていました。
しかし、今は「飛鳥」で出会った雄鹿を恋い慕っています。
それは、叶わぬ恋。
その慕情は静かに沸きあがっていくのでした。




