飛鳥の土になる
鸕野讚良皇女は岡宮太上天皇と会ったその日、急変しました。
直ぐに岡宮太上天皇と山辺皇女、文武天皇と皇后・紀皇女、長屋王と吉備内親王、阿閇皇女、氷高皇女ら皇族……そして、大和政権の中枢に居る者たちが続々と訪れました。
もう誰とも何も話せない状態になってしまった鸕野讚良皇女の傍には、女孺の舟坂と舎人の雄鹿が居ました。
常に傍に居た者たちです。
最期は静かに訪れました。
まるで眠るように逝ったのです。
部屋の中は嗚咽で溢れました。
文武天皇即位の1年後でした。享年、53歳。
史実よりも5歳も早い死でした。
亡くなった鸕野讚良皇女の傍に舎人の雄鹿と女孺の舟坂だけにして、皇族と大和政権中枢の者たちは鸕野讚良皇女の葬儀についての話し合いのために宮殿へ移りました。
その短い時間の間………。
雄鹿は舟坂に言いました。
「これから私が成すことは許されないこと。……それを見逃して欲しい。」
「何をするのです?」
「私の気持ちを表すのみ………。」
そう言って、雄鹿は懐から出した物を飲みました。
「雄鹿殿……… 何を飲んだのですか?」
「……………。」
舟坂は慌てて出て行きました。
雄鹿は薄れ逝く意識の中で、握りしめていた赤い糸を鸕野讚良皇女の左手小指に括りつけました。
その赤い糸の先は、既に雄鹿の左手小指に括られています。
小指同士を括りつけたまま、雄鹿は息を引き取りました。
慌てて戻って来た舟坂は、二人の様子に驚き身動きも取れませんでした。
舟坂が連れて来たのは岡宮太上天皇と長屋王だけでした。
岡宮太上天皇は、亡くなっている鸕野讚良皇女と雄鹿の姿を見て舟坂に聞きました。
「舟坂、これは……どういうことじゃ?」
「分かりかねまする。」
「もしや…… 鸕野讚良皇女様は雄鹿と情を交わしておったのか?」
「滅相もございません!
確かに鸕野讚良皇女様には常に雄鹿が付き従っておりましたが、
同様に私も付き従っておりました。
鸕野讚良皇女様が雄鹿と二人きりになる暇などございません。
鸕野讚良皇女様の名誉は保たれておりました。」
「そうか………。では…… これは、雄鹿がしたことなのか……?」
「はい。雄鹿殿が何やら飲みました。
そして、私が岡宮太上天皇様にお伝えに上がっている間のことだと
思われまする。」
「上皇様、これは…舎人の雄鹿が行ったことという舟坂の言葉を
私も信じます。」
「長屋……… そうである…な。」
雄鹿が繋いだ赤い糸を見て、岡宮太上天皇は、その赤い糸を切ろうとしました。
しかし、切れず……。
二人の遺体を離せなかったのです。
岡宮太上天皇と長屋王は、やむを得ず、鸕野讚良皇女のために用意した棺には何も入れずに、その棺を火葬して埋葬しました。
そして、二人の遺体は密かに誰にも知られぬように埋葬したのです。火葬せずに………。
このことは伏せられました。
全ての書物に書かれていません。
岡宮太上天皇と長屋王、二人だけが知っているのです。
そして、二人は生涯この事実を口外しませんでした。
鸕野讚良皇女と雄鹿は、飛鳥の土と………なったのです。
持統天皇の史実です。
大宝2年(702年)12月13日に病を発し、22日に崩御しました。享年58歳。1年間の殯の後、火葬されて天武天皇陵に合葬されました。天皇の火葬はこれが最初でした。
これで、「第2章 飛鳥」が終わりました。




