岡宮太上天皇
史実によると、持統天皇が太上天皇になり幼い文武天皇のために院政を行なっていたということです。
ですが、この世界で院政により政務を執り行ったのは、岡宮太上天皇(大津皇子)でした。
その岡宮太上天皇を支えていたのが長屋王です。
幼いながら文武天皇は二人から多くのことを学んでいるようです。
藤原4兄弟により、無実の罪に処せられ自害させられた長屋王とその家族。(長屋王の変)
その長屋王も家族も無実の罪を着せられて自害を選ばなくとも良いのです。
藤原不比等の娘たちは、それぞれに、どこかへ嫁したようでした。
史実では長屋王に嫁し、ただ一人長屋王の変の際に不比等の娘であることを理由に罪を問われなかった藤原不比等の娘・長娥子は、どこへ嫁したのでしょうか。
また、文武天皇に入内した藤原不比等の娘・宮子もどこかへ嫁していることでしょう。
宮子が産むはずだった聖武天皇を産むのは誰なのでしょうか。
持統天皇が己が腹を痛めて産んだ草壁皇子を天皇の玉座に座らせるためだけに殺された大津皇子。
彼を生かしたことで、歴史は大きく変わりました。
草壁皇子を天皇にする道が閉ざされると、その息子を天皇にして……。
日本は長男が家督を相続するというルールを持統天皇が作ってしまったのです。
その歴史が変わったことは、もしかしたら、こちらの世界の日本では、長男重視ではない日本になるかもしれません。
そんなことをぼんやりと考えることが増えて来たのが、今の鸕野讚良皇女です。
もう彼女は上皇と呼ばれなくなり、皇后でもなくなり、自分の名前で呼ばれることを願いました。
それを受け入れて、今は「鸕野讚良皇女様。」と呼ばれています。
「鸕野讚良皇女様の御容態は如何に?」
「はい。優れません。御食事も摂られないことが増えましてにございます。」
「何とか、為らぬのか……。」
「上皇様、何卒、鸕野讚良皇女様に……穏やかな最期を……。」
「舟坂…… そなた、長きにわたって鸕野讚良皇女様のお傍近くに居たの
ではないのか……。
そんな……そなたが、そのように言うて、鸕野讚良皇女様の御命が尽きる
ともとれる言葉を…安易に使うべきではない!!」
「お傍近くで常に居ることを許された舟坂であればの言葉と…………
捉えてくださりませ。」
「舟坂、そなたは……。」
「上皇様、鸕野讚良皇女様のお呼びでございまする。」
「今参る。」
上皇(大津皇子)が部屋に入ると、より小さくなった鸕野讚良皇女が座っていました。
その姿は、辛うじて座っているはずであるにもかかわらず、凛として昔のままの鸕野讚良皇女でした。
「鸕野讚良皇女様、どうかお休みになってください。」
「何を仰せやら、上皇様がお見えになるのに床に伏した姿では御目に
掛かれませぬ。」
「鸕野讚良皇女様、御身体に触ります。何卒、なにとぞ……。」
そう言いながら上皇は、鸕野讚良皇女を抱き上げました。
「何をなさいます?!」
「お静かになさってください。もうすぐ床に就けます。」
「上皇様……。」
「どうか、このまま………。叔母上様……。」
「大津………。」
上皇は鸕野讚良皇女を抱き上げた時、「こんなに軽いのか?!」と思うほど、鸕野讚良皇女は痩せ細っていました。
優しく鸕野讚良皇女を床に就かせた上皇は………。
「叔母上様のお陰で、この大津、命を貰いました。
叔母上様は私の母でもありまする。
斎王になった姉も間もなく参ります故、何卒その日まで……
その日まで………。」
後は言葉になりませんでした。
「大伯皇女が来てくれるのですね。」
「はい。」
「それは、楽しみです。大津も楽しみでしょう。
永らく会えていないのだから……。」
「はい。私も楽しみでございます。」
「大津、もう疲れました。休みます。」
「申し訳ございません。私のせいで……。
叔母上様に無理をさせてしまいました。」
「いいえ、楽しかったわ。来てくれて本当にありがとう。」
「直ぐに、また参ります故……。」
「待っています。」
「はい。」
そっと、鸕野讚良皇女の傍を離れて部屋を出る際に傍らの舎人・雄鹿に声を掛けました。
「雄鹿、何かあれば、必ず直ぐに、朕に伝えよ!」
「御意にござります!」
そして、女孺の舟坂にも声を掛けました。
「舟坂、鸕野讚良皇女様を頼む。守ってくれ。頼む。」
「畏まりました。」
文武天皇は皇后を伴い、阿閇皇女は氷高皇女を伴って、会いに来てくれました。




