大津皇子
我が子・草壁皇子の死、その時に涙を見せることは出来ませんでした。
政権の中枢に居るということは、泣くことさえもままなりませんでした。
密かに声を殺して泣ける場所は、夜寝る時だけでした。
布団を頭まで被り、布団の中で泣くのです。
草壁の死、そして舎人の唐津の死、最後に高市皇子の死……。
気力が衰えていくのを感じていました。
そんな時に岡宮天皇の訪問を受けました。
「上皇様、予てよりお伝えいたしておりました通りに譲位を致します。」
「帝、それは早すぎます。あの子には重すぎます。」
「上皇様の御懸念は分かっております。」
「ならば、もう少し先にしてください。
大友皇子が壬申の乱で勝てなかった理由の一つが側近です。
父上様が中臣鎌足と2人だけで政務を執っていました。
他の者に執らせることをしておけば、自ずと次世代に支えとなる人材を
育成できたはずです。
しかし、父上様はなさらなかった………。
経験豊富な側近に恵まれなかったこと、それが敗因だったと私は思います。
軽皇子を支えられる人材は育っているのですか?」
「はい。育ちつつあります。」
「育ちつつとは、何ぞや?」
「高市皇子の嫡男、長屋王を育てています。
彼は優れた人物です。
それに……朕が軽皇子に譲位した後も、軽皇子を育てます。
ですから、朕は軽皇子の傍に居続けます。」
「帝………。十分すぎるご配慮を賜りますこと、軽皇子に代わりお礼を
述べさせていただきます。」
「上皇様……勿体ないことでございます。
譲位につきましては、粛々と進めております。
後は即位の儀を待つばかりです。」
「そうなのですね。もう決まったことですね。」
「譲位が終われば、楽になります。」
「まぁ………。」
「草壁皇子がなるべき天皇の御位。
軽皇子がその地位に立ってくれれば、やっと草壁皇子に返せます。
天皇の御位を………。」
「大津、貴方という人は………。」
「上皇様、今日は上皇様付きの新しい舎人を連れて参りました。」
「唐津が申しておりました。唐津の代わりですね。」
「はい。左様でございます。」
そう言って、岡宮天皇は部屋の扉を開け言いました。
「雄鹿、入って来よ。」
⦅え? 雄鹿?? どうして雄鹿?⦆
部屋に入って来たのは雄鹿でした。
「上皇様の新しい舎人でございます。雄鹿、ご挨拶を…。」
「はっ!」
「上皇様に於かれましては………。」
雄鹿の挨拶が聞こえているのに、何を言っているのか分かりませんでした。
それほどの衝撃でした。




