草壁皇太子逝去
藤原不比等とその一族の刑死が、草壁の耳に入るのに時間は掛かりませんでした。
「皇后様、草壁皇太子様から皇后様のお目にかかりたいとのお申し出にございます。」
「草壁から……。参ります。」
「はっ。」
草壁皇太子の謹慎は解かれていましたが、今も舘を出ることなく過ごしていました。
公務である天武帝の殯だけ舘を出るのです。
「草壁、どうしました?」
「皇后様………教えて頂きたく……。」
「何をですか?」
「………藤原不比等……のことを……。」
「不比等の何を知りたいのですか?」
「…刑に、処されたと………。」
「ええ、処しました。」
「どのような刑なのですか?」
「死罪です。」
「死…………………。
不比等だけですか?」
「…いいえ。」
「一族郎党もですか!?」
「ええ。」
「何故? 何故なのです?
私は謹慎だけでした。なのに……不比等は……。」
「不比等が大和政権を乗っ取ろうとしたからです。」
「乗っ取る?」
「そうです。不比等は天皇の祖父になることを欲していました。
そのために邪魔な大津を殺める計画を立て、そなたを利用したのです。」
「…母上様、その通りだろうと思います。
しかし、利用された私の罪は軽くありません。
罪は重いのに、私だけが問われていません。」
「問いました。問うています。今も……。」
「どこが!」
「そなたの苦しみが物語っています。
草壁、私は言いましたね。
共に罪を償おうと……。
その罪の重さを知ったうえでの苦しみ……。
それが私とそなたの罰なのです。」
「こんなくらいでは……許されません。」
「大津が許したのです。
もっと重い刑を!と大津は言いませんでした。
罪には問わないと、大津は言ったのです。
その大津の気持ちを、そなたは軽んじるのですか!」
「…………。」
「大津は今もそなたを補佐しています。
大津の気持ちに応えるのです。
そなたには、それしか罪を償うことは出来ないのですよ。」
「…………母上様。」
「私と共に苦しみましょう。
なれど……妃・阿閇皇女に心配をかけてはなりません。
子らにも……いいですね。」
「母上様……、皆が言っています。
大津と私が石川郎女を奪い合った末の出来事だったと…。」
「気にしないよう…と私が言っても無駄でしょうね。」
「私は石川郎女に想いを寄せていました。
ですが、石川郎女が大津の想い人であると分かった時に諦めました。」
「そうですか…。」
「母上様……。 石川郎女への想いなどではありません。
私に、大和政権を確たるものにするために……大津を葬ると……
それしかないと……不比等が申したのです。
その言葉を信じてしまったのは愚かであったと思います。」
「そうですよ。その通りです。」
「大津に会わせる顔がありません。」
「大津は不問に処してくれました。
そなたが今度は大津に返す番ですよ。」
「返す?」
「そうです。そなたが政務をしっかり務めることしかありません。」
「はい。」
「分かりましたか?」
「はい。」
何度も「大津が不問にしてくれた」と話しても、草壁の心は壊れていくようでした。
それとともに……身体も……。
688年11月。
天武帝の殯が終わりました。
その翌年、689年4月13日。
草壁皇太子の身体は悪化を辿り、妃・阿閇皇女の献身的な看病を得ても快癒することはなく、この世を去りました。
享年、27歳。
早すぎる死でした。




