隠された心の傷
カルロスが出て行って、エドワードは深く息をついた。顔色は幾分マシになっている。
明日から準備で忙しくなる。カルロスの言葉通り、ゆっくり眠れるのは今日くらいのものだろう。
ラヴィリアにも申し訳ないことになった。ソーラの唐突な申し出により、ラヴィリアが新たな工場の責任者を押し付けられた。ソーラの人を見る目は確かだが、全くの未経験者に任せるような仕事ではない。ソーラの方で誰か人を付けてくれるだろうが。
エドワードは腕を組んで考え込んだ。
まあ、工場の方は失敗したとしても大損するくらいで命取られるわけではないし。
大損は痛いけど。物凄く痛いけど。
取り返すのにまたしばらくかかるだろうけど。
でもまあ、死ぬ訳では無いし、うん。
大丈夫、生きられる。それが大事。
でも先に謝っとこう。
ラヴィ、厄介なことに巻き込んで、ごめーん。
ラヴィリアに謝罪しようと、目を向けた時だった。
思いのほか近くにラヴィリアがいた。
エドワードの肩のタオルを持ち上げて、濡れた髪を拭き始めた。思い詰めたような表情が胸に迫った。
タオル越しで自分に触れる、指の感触に意識を持っていかれる。女性らしい細く優しい指が触れている。
……あれ? 近い。
「エディの髪、まだお水が滴ってます。風邪を引いてしまいますよ」
「あ、うん……」
「出発準備は、どれくらいかかりますの?」
「マフマクン領への出発まで?
うーん。四、五日くらいかな」
「こちらに帰ってくるのは?」
「行ってみないとわからないけど……一ヶ月位か。もし反乱が本当に起きてるんなら、それ以上。反乱の規模が読めないから、帰るのもいつになるかわからない」
「そうですか……」
ラヴィリアはエドワードの髪を拭くのを止めた。唇を結んで、間近に見るエドワードの頭に目をやった。毎日目にしている、チョコレート色の髪だ。
ラヴィリアは、エドワードの髪にそっと触れてみた。触れるのは初めてだ。濡れた髪はいつもより濃く見えて、いつもより艷やかだった。しばらくこの髪を目にすることができなくなると思うと、気持ちが塞ぐ。
王太子に襲われた時、自分を庇った背中がエドワードだと思ったのは、この髪が目に入ったからだ。高い位置にあるチョコレート色の髪に、酷く安心したことを覚えている。
この髪に毎日会えないのは、とても寂しい。
ラヴィリアは少し屈んでエドワードと目を合わせた。驚いたように見開くエドワードの目は、いつものように優しいチョコレート色だった。
この目も、ずっと見ていたい。
飾らない瞳が好きだった。
メイクでキラキラにされたエドワードより、感情が素直に映るエドワードの目を見るとほっとする。演技では無い本当のエドワードがそこにいると、実感するのだ。
エドワードを毎日見ていたいのに。これから、いつ会えるかわからない日々が続くなんて。
「会えなくなるのが寂しいです」
「……」
「毎日会いたいです」
「……」
「エディと一緒にいたいです」
「……いや。いやいやいや」
エドワードがラヴィリアの肩を掴んで身体を遠ざけた。頭をブンブン振っている。
ラヴィリアの言葉の内容が想定とかけ離れすぎていて、理解が追いついていなかった。
なんて言った?
寂しい。会いたい。一緒にいたい。
だれが言った?
……ラヴィリアだ。
いやいやいや。
らぶきゅん王子ならともかく、すっぴんの俺に何言ってんの。
冷静になろうとして、エドワードは自分がラヴィリアの肩を掴んだままであることに気付いた。
うわあと、慌てたようにすぐに手を離す。
「ごごごごめん、ラヴィ。触れてしまった。
病は? 症状出てない?」
「エディ……」
「『王族接触拒絶症』でしょ。こんなに近づいちゃダメだよ。これでも一応、俺は該当者なんだし」
「エディは……エディは平気ですから」
「前に皮膚が赤くなったことあるじゃん。油断しないで」
「エディなら大丈夫です!」
「ダメ。俺は加害者になりたくない」
加害者、の響きにラヴィリアは怯んだ。
『王族接触拒絶症』の前では、エドワードとラヴィリアは、加害者と被害者の関係になってしまう。
好きなのに、触れられない。物理的に触れることができない。
そんな相手をラヴィリアは選んでしまったのだ。
『王族接触拒絶症』を発症する王族が、恋する相手になってしまった。
……だけど。
しかたないじゃない。
好きになっちゃったんだもの。
エドワードへの想いは止められない。
エドワードを見ると心が締め付けられることを知った。近付くことでドキドキする事に気付いてしまった。仄かな恋心は、知らぬ間にどんどん膨らんでいった。
ラヴィリアの心がエドワードで占められていく。
だってもう。こんなにも、エディのことが好きだから。
ラヴィリアはエドワードに近付いた。
渾身の勇気を振り絞って、チョコレート色の頭を抱き寄せた。恥ずかしいとか、はしたないとか、後回しにしてしまおうと思った。
「え? ええっ?」とエドワードの焦った声が聞こえてきたが。
遠くに離れてしまう前に、ちゃんと気持ちを伝えたい。いつ再会できるか、わからないのだから。
「エディのことが好きです」
「……!」
「アイドル王子のエドワード王子ではなくて、なんにも着けていない、今のエディが好きなんです」
「ラヴィ……」
「病が発症しても、エディは加害者じゃない。わたくしが望んだことです。わたくしがエディに触れたいのだから」
「あの。ちょっと待って、ラヴィ」
「エディ、あなたが好きで……」
ラヴィリアの言葉が終わらないうちに、ラヴィリアは無理矢理エドワードから遠ざけられていた。立ち上がったエドワードが力づくで引き剥がしたのだ。
呆然としたラヴィリアに、エドワードが気まずそうに顔を背けた。手は直ぐに引っ込めて胸の前で腕を組んでいる。接触を控えていることが容易に知れた。
横顔が申し訳なさそうに沈んでいる。ラヴィリアと目を合わせられないようだった。
「……ラヴィ、そんな風に気を使う必要は、無いよ」
「……気を使う?」
「どちらかというと、気負う、かな。
俺たちは偽装結婚予定だし、お互い納得して心のない婚約者やってる。だから、気負って俺を好きになろうとか、いらないから」
「エディ……」
「ちゃんと話してなかった俺が悪い。
状況が変わって落ち着いたら、君とは正式に婚約破棄をする。もし時間が経って結婚してしまっていたら、綺麗に離婚してあげるからね」
ラヴィリアは目を見開いてエドワードを見た。
思いもよらぬ言葉がラヴィリアの心を撃ち抜いた。
婚約破棄をする?
離婚してあげる……?
「どうして」
「ラヴィは真面目な子だから、頑張っちゃうんだよね。きちんと早く伝えておけばよかった。
俺のことを無理に好きになろうって、努力する必要は無いんだよ」
困ったように眉を寄せるエドワード。
彼の言葉は本気だった。本気で、いつか訪れる別れを口にしていた。
ラヴィリアの好意は不要だと。
いつか必ず自分たちは別れるのだと。
ラヴィリアはぐっと拳を握った。
無理に好きになろうとしていた?
そんなわけが無い。婚約者だからという義務感で、エドワードを好きになったんじゃない。
エドワードの優しさに気づいたから。自分を労る気持ちが嬉しかったから。優しい心遣いを、自然体でやっているエドワードに惹かれたから。
だから好きになったのに。エディのこと本当に好きになったのに。
ラヴィリアは睨みつけるようにエドワードを見上げた。
「エディのこと、努力して好きになったわけじゃない!」
「……そうかー。
そうきたか。ラヴィらしい。
俺が欲しそうな言葉を選んでくれるんだね」
「エディ!」
「ラヴィが言ってる俺って、素の俺ってことだろ? 好きとかありえない。
アイドル王子としてキラキラしてない俺に、価値なんかあるわけないじゃん。そんなこと、俺はとっくに知ってる」
「……何を言っていますの?」
「無理して認めてくれなくても分かってるから。どうしようもなくダサい俺、自分で知ってるからさ。ラヴィが想ってるラヴィだけの俺は、なんの価値もない奴だよ」
「そんなの……!」
「大丈夫。ラヴィが生きやすい道は作っておくから。マリ王国に帰るでも、スファルト王国の高位貴族に嫁ぐでも、できるだけ君が望むようにしたい。だから、少しの間だけ我慢していてほしいんだ」
「……エディ」
「ごめんね。
俺が君の相手で、本当にごめん」
ラヴィリアの大好きなチョコレート色の頭が、謝罪するように目の前で下げられた。
躊躇いなく下げられたエドワードの頭を見て、ラヴィリアは呆然とした。そして悟った。
目に見えていなかった真実に、気が付いてしまった。もうたぶん、何年も前からずっと、エドワードはそうだったのだ。
エドワードは上手く隠していた。自然な素振りで見えなくしていた。ただ無意識で、自分では気付いていないのかもしれない。
困ったようにこちらを見ないエドワード。
頑なに己を否定するエドワード。
ラヴィリアの差し出した気持ちを、決して受け取らないエドワード。
どうしてそんな態度を取るのか。気づいてみたら簡単だった。
――彼の心は、とっくの昔に壊れていたのだ。
刺客に襲われる度に、『お前など死んでしまえ』を突きつけられて。
自分の顔も性格もねじ曲げ、自分を削り売りする生活を強いられて。
達成不可能な任務を与えられ、『遠くで死んでこい』『達成できなければ死ね』と暗に責められ続けて。
もともと優しくできていた心が、壊れないわけがなかった。
さらに、他所の国からやって来た、何も知らない少女の責任まで負わされることになった。
壊れた心は、さらに壊されることを恐れた。自分を守るためには、そうするしかなかった。痛みを感じる前に、痛くならないようにするしかなかった。
エドワードの心は、完全に壊される前に、防御に徹することにした。
優しいエドワードは、優しく他人を拒絶することを覚えた。
ラヴィリアが好きになったエドワードの優しさは、ラヴィリアとの間に躊躇いなく線を引くことを選んだ。
マシューやカルロスは一蓮托生だ。だからエドワードも遠慮しない。あの遠慮のないやり取りは、死なば諸共と言ったところだ。
ラヴィリアはそこに入れてもらえない。
一緒に死のうなんて、エドワードが言うはずがない。俺は死ぬから君には生きてほしいと、自ら引いた線の向こうで、踵を返すのだ。
それが、優しいエドワードの生き方だった。
ラヴィリアは暗い深淵に落ちていくような錯覚を覚えた。
エドワードが遠かった。
少しずつ近づいたと信じていたエドワードが、あまりにも遠い。隣にいたはずのエドワードは、とてつもなく遠かった。
混乱した頭でエドワードを見上げると、エドワードは明らかにたじろいだ。
慌てて手を差し伸べようとして、触れてはいけないと引っ込める。ぎくしゃくと手を動かして首のタオルを引き抜き、折りたたんでラヴィリアの目元に当てた。
ラヴィリアは泣いていた。
ぼたぼたと目から落ちた雫が、ほのかにエドワードの匂いのするタオルに吸い込まれていく。ひぃん、と情けない声が漏れた。
涙はエディと一緒にいられるのに、とラヴィリアは自分の涙に僻んでしまった。
悔しくて悲しくて、涙はいつまでも止まらなかった。
どうしても泣き止まないラヴィリアを、オロオロしながら慰めていたエドワードだったが。場を救ったのは、巡回を終えて戻って来たマシューだった。
マシューは小屋に戻った瞬間に、「あー!」と大声を上げてエドワードに指を突きつけた。
「エディが姫さん泣かしてる!」
「違う! これは違うんだっ、ちょっとした行き違いで」
「姫さん、どした? エディの阿呆が何か余計なこと言った?」
「あ、当たらずとも……遠からず、ですっ」
「エディのバーカ。早くあやまれー」
「謝ったし!」
「エディ、その謝罪は……ひっく……わたくし、受け付けませんからね!」
「ちょっ……なんでだよ!」
「わー、姫さんガチギレじゃん。
エディ、ホントに何言ったんだお前」
「なんか、全部俺のせい?!」
いつものようなエドワードとマシューのやり取りのおかげで、ラヴィリアの涙は引いて行った。マシューの「あー腹減ったー」の一言で、ラヴィリアは夕食の準備に取り掛かった。日常の仕事がありがたかった。
鹿のモモ肉を焼きながら、ラヴィリアはこっそりと自分自身に喝を入れた。
今はまだ、このまま。
絶対にエディの味方だ、と分かってもらえるまで頑張るしかない。
壊れた心が受け入れてくれるまで、エディに訴えていくしかない。
だってラヴィリアの『好き』は、まだ終わってはいないのだから。完全に別れを告げられたわけじゃない。
まだ繋がっているんだし。
エドワードから線を引かれてしまったけど、それでもエドワードを愛しいと思うから。
絶対、諦める、なんてしないんだ。
あれ……だけど。ちょっと待って。
線を引かれてるってことは。
もしかしてもしかしなくても。事実だけつまんで冷静に見ると。
ラヴィリアの喉の奥がぐぅとなった。信じられないことに気付いたのだ。自分の身にこんなことが起こるなんて思ってもみなかった。
なんということでしょう。
でも、間違いないですよね。
わたくし、たった今。
――――人生初の、『失恋』を味わったのでは?
これが世にいう失恋?
わたくし今、失恋しましたの?!
「ああああああああっ!」
「ラヴィ、今度はどうした?!」
「なんでもないですわっ放っておいてですわっでも言わせてくださいエディのバカー!!!」
「なんなんだよ、なんで俺、突然怒られてんだよ!」
「エディ、反省しろよ」
「反省してください!!!」
「そもそも何を反省すんだか、さっぱり分かんねえんだよ!」
「やっぱりエディのバカー!!!」
鹿のモモ肉は焦げ付いて、ちょっと苦い味がした。




