愛するつもりはないと言う人の失言が可愛い
麗かな春の日。格式高い結婚式が終わった。そこかしこに狼が印象的なキリバー大公国の紋章が飾られている。新郎新婦は、背中一面にこの紋章が織り出された揃いのマントを着ている。武国ゆえ、祝砲を打ち、進軍ラッパが吹き鳴らされる。
(祖国と違って活気があるのねぇ)
2頭の狼が後ろ足で立ち上がり、向かい合わせに盾を守る。分割のない盾には、扉に重ねた鍵がデザインされていて、盾の上には騎士の兜があった。盾の下に刻まれたモットーは「開け、吼えろ、疾れ」である。
(ポジティブなモットーも好きだわ)
伝統に則った披露宴も済ませた。大公国の元首であるキリバー大公ミスティクス氏は、豪華なソファにふんぞりかえっている。一昨年先代当主を病気で失い、この春わずか18歳で国を継いだ。
(嫁き遅れの同い年、しかも大女の無駄飯食いを見下してらっしゃるのね)
正面には未だウェディングドレス姿の新妻。キリバー大公夫人フォギー、すなわちわたくし。隣国より嫁いできた。即位に伴い急ぎ整った縁談ではない。キリバー大公国の先代とわが王国の首脳陣とで数年かけて調整した婚姻だ。
マントに負けず豪華な銀色のたてがみは、鋭く蒼い瞳の偉丈夫のものだ。この方が夫。向かい合って座るのは、灰茶色の萎んだ髪をなんとか膨らませ、花嫁を表すオレンジの花で飾り立てた大柄な女性。つまり、わたくし。
よくある政略結婚だ。結婚式が初顔合わせ。釣り書きやら贈答品の交換は親同士が行っていて、当人達は手紙の交換すらない婚約期間だった。この国とその周辺諸国では、裕福な庶民から上の階層に普及している営利目的の婚姻方法である。
「愛のない墓場へようこそ」
ふんぞりかえったミスティクス氏は、割れ鐘のような声でがなる。キリバー大公国は軍政国家である。騎士元首と言えば聞こえはいいが、要するに脳筋蛮族が周辺諸国の格調を真似ただけのハリボテ野蛮人国家なのである。
(この方、ご自分の仰ってる意味をご存知なのかしら)
わたくしは婚姻後第一の疑問を得た。
わたくしは隣国の王女である。子沢山で有名な、豊かな森林国家から嫁いできた。祖国は継承者指名制の専制君主国家だ。乱暴なまでに王権が強い。わたくしは地味な立ち回りしかできないので、いらない子。生まれたのも8人兄妹の5番目と中途半端だ。
(だからといって、粗雑に扱えば悪い評判が立つわよ?)
祖国は外交が得意なのだ。沢山の友好国を持つ。わが祖国を敵に回せば、あっという間に大軍が押し寄せるだろう。
(生真面目そうに見えたのに)
形式通りに進んだ結婚式と披露の宴までは良かった。互いに決められたことを粛々と行うだけ。挨拶なども決まり通りに進む。だが、いざふたりきりになって、この後一生続くことになるミスティクス氏の失言が始まったのだ。
「私は貴女様をお愛し申し上げるつもりはございません」
やたらに丁寧な言い方をしてくる。内容とも声とも口調とも合わない。
「お分かりか」
威圧的に叫ぶ新郎の蒼い瞳はあらぬ方を睨んでいる。わたくしはミスティクス氏の撫で付けた銀髪から磨き上げた儀礼用軍靴に至るまで一息に確認した。
たてがみのような銀髪を無理矢理押さえつけた頭は、大国の主人にも匹敵するほど堂々としている。全身に隙はなく、多少胸を張りすぎだが姿勢良く、視線以外はこちらに真っ直ぐ向いている。
「承りました」
他に言うこともないので、取り敢えず承る。対処については後で考えよう。
「ふむ」
ミスティクス氏は満足そうに頷くと、ベルトから重そうな鍵束を外した。わたくしたちが向かい合っている頑丈な黒いローテーブルの上に、武骨な鍵束がガチャンと置かれた。彼の視線が、今度は鍵束に固定される。
「本日只今より、わが邸宅の管理は貴女様に任されます」
(結婚というより就職よね)
「承りました」
「これは全ての部屋の鍵でございます」
(あら?立ち入り禁止はないの?)
「貴女様はわが大公国の女主人でございます」
(行動制限はこれから言われるのかしら)
ミスティクス氏は鍵束を見つめる。
「どうかお受け取りください」
また、言葉と口調や声が合わない。早く受け取れということか。さっさと説明を済ませて同居愛人の部屋にでも行くのだろう。どうせこの鍵束はダミー込みなのだ。
キリバー大公国の貴族が営利結婚の奥方に渡す鍵束は、酷い場合だと全て装飾用の鍵なのだとか。そもそも鍵を渡さないこともあるそうな。
奥方は奥方で、名ばかりの女主人が気楽で良いというのだから、問題は起きない。活動的な女騎士も多く、男性に興味のない奥方も多いと言う。
「かしこまりました」
わたくしは重たい鍵に手を伸ばす。片手では持ち上がらず、慌ててもう片方の手も添える。すると、大公様が素早く鍵束に手を翳した。ひんやりと気持ちの良い空気が流れて、鍵束が急に軽くなる。
(キリバー大公家の魔法だわ。実在したのね)
わたくしは両の頬が上気するのを感じた。キリバー大公家は代々魔法使いなのだという噂があった。外部のものは誰も見たことがなく、御伽噺とされていたが。わたくしはいま、その不思議な力を体験した。これが興奮せずにいられようか。
「あの、ありがとうございます、貴重な魔法で軽くしていただき」
緊張で声が上ずる。
「貴女様に使う魔法などございません。思い上がらないでいただきたく存じます」
(この方、何を仰るの?)
早くも二つ目の疑問が出てきた。
(いまの、明らかに魔法よね?)
わたくしは何と答えてよいか分からず、そそくさと鍵束を引き寄せた。すると大公ミスティクス氏は窓際の大机に立ってゆき、引き出しから包みを取り出した。それは、薄黄色い絹に銀レースのリボンが十字にかけられた、上品な包みであった。
「どうぞ」
また割れ鐘である。
(普通に言えないのかしら)
わたくしは包みを受け取ると、まず手触りの良さに驚いた。なんと高級な薄絹だろう。レースは本物の銀を細く糸のようにして編んだ物だ。
ドキドキしながら薄絹を開く。幾重にも畳まれた薄絹は、それ自体ショールとして使えるようだ。リボンはサッシュにもなる。ふんわりとライラックの香りまでする。
「お心遣い痛み入ります」
「必要な物は手配致します。貴女様にする気遣いなど一切ございませんので、そのおつもりで」
(はいはい、必要な物ね。だいぶ解ってきたわよ)
ショールの中には平たい革の箱が入っていた。蓋を開けると鍵束用の腰帯が現れた。灰茶の革に煌めく深紫の四角い宝石が並んだ豪華な品だ。鍵束を下げる金具は精緻な透かし彫りで狼を表す銀製である。ベルトを締める留め具には蒼い石がついている。
(夫婦の色ね)
銀髪に蒼い眼のミスティクス氏と灰茶の髪に濃い紫色の瞳を持つわたくし。
(ふふっ、確かに腰帯は必要だけど)
「お心遣い感謝致します」
「必要なことゆえ致しました。貴女様に心を砕くなど時間の無駄でございます」
(そうでしょうとも、そうでしょうとも、うう、笑いを堪えるのが難しくなってきたわね)
鍵には記号と番号がついている。察するに、何階の左右どちら側で真ん中から何番目の部屋、という意味だ。玄関ホールの正面中央にまっすぐ愚直な大階段がある。上の階へはそこから折り返してさらに真っ直ぐな階段で上がる。つまり、それぞれの階はちょうど真ん中でつながっている。部屋は全て南向きだ。
「何か質問はございますか」
(あら?行動制限は?)
「あの、立ち入り禁止区画は」
ミスティクス氏は一瞬びくりとして眼を閉じる。また瞼を上げると、相変わらずの大声できっぱりと言った。目線は窓の外に向けて。
「ございませんっ!」
「え」
「貴女様は、大公国の女主人でございますゆえ、この館も、大公国の隅々までも、入ってはならぬ所などございません」
「まあ、」
わたくしは狐に摘まれたような心持ちがする。
「それは、」
ミスティクス氏の様子を見ていると、どうも建前とは思い難い。後になってから、でもここはだめその扉は開けるななどと言い出しそうな気配も感じられない。
「光栄に存じます」
兎も角も頭を下げた。
「では行きましょうか」
大公様は叫ぶなりカッと眼を見開いて、唐突に視線を合わせてきた。何やら嬉色すら浮かぶ蒼眼が、私の紫色を捉えて離さない。
(嫌だわ、なんだか胸が苦しい)
形式通りに手を取られて、わたくしは夫婦の居室に案内される。今いたところは執務室とかいう場所だ。
「おお、そうだ、私のことはミストとお呼びいただきたく」
「かしこまりました」
ミストは移動中の廊下で叫ぶので、壁板がビリビリと震えた。何処かにいる召使い達の耳も驚かせただろう。
「貴女様は?」
「ご随意に」
「では女神と」
「んまあっ」
わたくしは耐えきれず笑い出す。ミストはきらきらと眼を輝かせて見つめてきた。
「呼び名の希望があるのですかっ!」
特別な呼び名を許されるのを期待しているのだろう。部屋へと導く手は優しく、足元にも注意を払ってくれる夫。しかしやはり喚く。どうにかならないものか。希望を出せば聞き入れられるのか。
「あ、その」
笑ってしまって、うまく言い出せない。こちらが呼び名を申し出ないので、ミストはややがっかりしている。
「女神がお嫌でございましたら、フォグでは如何でしょう」
急に普通になった。叫びさえしなければ。
「ええ」
私もミストの瞳をまっすぐ見つめて返事をする。雪原の夜明けのような薄明の瞳だ。神秘の力が宿っているのを感じる。
「でもあの、お声が、その、少し」
「貴女様とお言葉を交わすことは今後ございません!」
(ああ、気を遣わせてしまったのかしら?)
私はこの家に来て三つ目の疑問を抱く。夫の言葉はわかりにくい。なんとなくツボは見えてきたが、確信は持てずにいる。
「あの、少しだけ小さくして頂ければ構いませんのよ」
(全く話さないなんて、失礼なのに)
「貴女様は話したいのですか」
割れ鐘と喜びの眼差しが、私の胸の奥に向かって突進してきた。
(この方、ふさふさの尻尾でもあるんじゃないかしら)
もしあるならば、千切れんばかりに振っているに相違ない。
「はい、できましたら」
「善処致します!」
声量を抑えないのは困るので、少しだけ意地悪な気持ちになる。
「ご無理でしたらお話頂かなくとも構いませんのよ」
しゅんと音が聞こえそうなほど、見る間にミストはしょぼくれた。
「対応可能です」
「では、お声を少し下げていただいても?」
ミストは視線を壁に移して頷いた。
観音開きの扉の前には、姿勢の良い男性が待ち構えていた。
「フォグ、家令のクレマンです。他のものは明日改めてご紹介いたします」
国境を越える時からの大人数のお迎え、館に到着した時にずらりと並んだお出迎え。彼らを今から紹介されたら、確かに時間がかかり過ぎる。夜が明けるどころか明日の夕方になってしまうかもしれない。
おそらくは気遣いであるこの説明を口に出すときも、ミストはやっぱり割れ鐘だ。眉間に縦皺が深く刻まれる。どうやらボリューム調整を試みたようだ。
(ふふ、失敗したのね)
クレマンは深々とお辞儀をすると、わたくしに布装の本を差し出してきた。ピカピカの丸い銀盆に載っている。ちらりと夫を見ると頷くので、ありがたく受け取る。本を持ち上げると、線彫りのキリバー公爵家紋章が現れた。
わたくしは本の題名を見る。
(ぎんいろおおかみ?)
「中を見ても良いでしょうか」
「お好きに。フォグは女主人でございますによって」
部屋に招き入れられてから、私は本をひらく。それは、子供向けの動物絵本だった。
「おおかみのめ?」
夫を横目で盗み見る。心なしか顔が赤い。
「入り口から離れていただけますか。ドアの前に立ち止まって居られますと困ります」
怒鳴りながら、ミストは丁寧にエスコートしてくれる。部屋の中央には立派な天蓋付きの寝台が据えられている。壁際にはサイドテーブルと椅子が2脚。私たちは向かい合って座る。
「ウェディングドレスは、この場に相応しくはございませんよ。少しは考えたら如何ですか?貴女様のウェディングドレス姿なんか見ていたくありません」
(リラックスできる部屋着に着替えてこいってこと?侍女とか居ないのかしら?)
「ひとりでは着替えられませんわ?」
ミストはそれを聞くと、バシンバシンと大きな音で手を叩いた。クレマンとは別の召使いが飛んでくる。
「奥方の着替えを頼む」
私は本を取り上げられて、寝室の脇のドアから隣室へ送り込まれる。召使いは一旦廊下に出た。というより、その召使いは担当外だったので居なくなった。代わりに、隣室の隅にある小さな扉から部屋付きの小間使いが現れた。
やがて現れた侍女たちに世話をされながら、私は本の内容を思い出す。
「おおかみのめ」
「あそびたいとき、おおかみは、めを、みひらきます」
「いかくしたいとき、じっとみつめます」
「しんらいしているとき、めをそらしたり、とじたりします」
「これは、てきいのない、しょうこです」
(いやでもあれ、動物の、本物の狼の話よね?)
わざわざ新妻に家令を通して渡した本の記述である。何か意味はあるはずだ。嫁ぐ前に学んだ伝説では、この地には灰色狼が多く、森の奥に住む魔性の者からキリバー大公国を守っているのだという。現実でも紋章に取り入れるほど、キリバー大公家と狼は縁が深いのだろう。
(当主は狼の真似をする慣習があるのかしら)
このあと、寛ぎながらそういう話をしてくれるのかもしれない。
(敵意の無い証拠)
鍵束を渡す時、頑なに目線を合わせなかった様子を思い出す。
「ふふふっ」
「ご無礼を!」
湯浴みと着替えの係が青くなる。
「え?」
「あの、くすぐったかったのでは」
「あら、違うのよ。ミストが可愛らしくて」
着替え係は黙って頭を下げる。
支度が済んで、着替え係は退出した。わたくしは部屋の間にあるドアから、夫婦の部屋に戻る。ミストも湯浴みを済ませて部屋着になっていた。
(わあ、髪をセットしてると威厳があって、下ろして部屋着だと無造作な感じが素敵だわ)
部屋着姿の夫は、大変魅力的だった。パラパラと不規則に顔にかかる銀髪で、武人然とした厳つい顔が和らいでいる。ミストは私を見ると、また視線を反らす。
(仲良くなりたいという意思表示なのかしら?)
壁に飾られたシンプルなランタンを射すくめている、夜明けの青が美しい。視線の合わないその瞳を見つめながらサイドテーブルに近づくと、ミストの耳が赤くなる。さすが騎士元首。好意的な眼差しを投げかけられているのがわかるのだろう。
割れ鐘のような声や、動作のたびに立てる大きな音にも理由があるに違いない。そう思うくらいには、わたくしの心はミストに捕らえられていた。
「お待たせ致しました」
「貴女様を待つほど暇ではございませんよ」
ミストは形ばかり兵法書を手にして、既に寝酒を傾けている。グラスはふたつ。肉厚なゴブレットだ。金属の縁には、丸い宝石がぐるりと並んでいる。薄明の青は私に、星空の深紫は夫に。わたくしの分にも深い赤紫の果実酒が、なみなみと注がれている。
「あの、わたくし、ご酒はちょっと」
「ご一緒に寝酒を呑んでいただく必要などございません」
声量を調節しようと四苦八苦している。いささか気の毒だ。しかし、このままではわたくしの耳がやられてしまう。多少気は引けるが、そこは努力していただこう。
「お水がございましたなら」
ミストは頷くと、またバシンバシンと手を叩く。
「あの、人を呼ぶには、そのように大きく響せなければなりませんの?わたくし、自信がございませんわ」
「そのような弱々しいご婦人は、戦場では生き残れませんなあ」
ミストは年端もいかぬ頃、戦場にいた。だがここ数年は周辺諸国の小競り合いも無いはずだが。
「近々戦がございますの?」
「貴女様はキリバー大公家の戦いぐらいは知っておくべきですね」
(あ、教えてくださるのね)
「わがキリバー大公家は、森の深くから人界を狙う魔性と戦う勇敢な狼の一族なのです」
ミストは勢いよく立ち上がると、ベッドとサイドテーブルの間の何もない場所まで歩いて行った。それから、褒めて欲しそうに青い瞳をキラキラさせる。
(あ、拍手すべき?)
わたくしはまだ呑み込めないながらも賞賛の準備をすると、ミストは口を一文字に引き結ぶ。
「なんと気高い」
私の唇から胸の内が溢れでる。ミストの銀髪がぶわりと広がり、口は大きく開かれた。その神秘的に煙る青い瞳には、うっすら涙すら浮かぶ。
「お役目に愛を望んではなりません!」
けれどもその真摯な眼差しには、はっきりと愛の兆しが覗く。私の鼓動は速くなる。
ミストとわたくしの婚姻の夜、キリバー大公家夫婦の居室に銀青の光が満ちた。窓の外では朧にゆらめく春の月が狼たちの国を見下ろす。
森林を走る狼が織り出されたベッドカバーの前で、銀の光がひとつの姿にまとまってゆく。やがてすっかり光が消えた。
そこにはひとり、誇り高い蒼銀の狼が佇んでいた。わたくしに霞んだ青い瞳を向けて。千切れんばかりに振られたその尾は、月の光を集めて滝にしたような美しさであった。
「ミスト!」
わたくしは駆け寄る。椅子が倒れるのもそのままにして。ああ、わたくしの、素晴らしい銀色狼。人の言葉が下手くそだって。そんなの全く気にならない。むしろとっても可愛いわ。わたくしは、ふさふさの首に腕を回して飛びついた。
「宿命がなによ!愛し合ったってお役目はきっと果たせますとも!わたくしたちで新しい伝説を作りましょう」
わたくしの小さな演説で、ミストの堂々とした前脚に力が篭る。
(あっ、失敗したわ)
ミストは感極まって、耳をつんざく遠吠えを始めた。
お読みくださりありがとうございます