8月14日
私が家を出ようと玄関で靴を履いているときに正樹に声を掛けられた。
「兄貴、出掛けるの?」正樹は驚いた顔をしている。
「ああ、まぁね。」
「なんだよ、今日は兄貴と買い物に出掛けようと思っていたのに。」正樹は不貞腐れた顔をする。
人の予定を勝手に決めるな、と言いたくなるのを我慢して「残念だったな」と家を出ようとしたときに「兄貴、待って。」と呼び止められた。
「また、竹下さんとデート?」
「いや、違うけど。」
「え!? じゃあ、誰と出掛けるの? まさか1人じゃないだろ?」
説明が面倒だな、と思いながらも「初対面の女性だよ。」と答えた。
「初対面の女かよ。どうして?」正樹は目を見開いて言った。
「まぁ、竹下さんの指示だよ。」私は短く答える。すると、正樹が「まさか、危ないことに巻き込まれてるんじゃないの?」と口にしたので私を怒りを口にする。
「お前が巻き込んだろ。」
「そうだけどさ〜」
もう行くから、と手を振りドアに手を掛けたときに彼が「行き先はどこ?」と訊ねてきた。
「研究学園だけど」と答えると「じゃあ、俺も行くよ。」と彼は口にした。
「いや、なんでだよ。」
「いや、兄貴が事件に巻き込まれてそうで心配だし。」
「いや、おかしいだろ。」
「おかしくないよ。元々、兄貴を巻き込んだのはおれだし。」と言うと彼は回れ右をして「ちょっと準備するから待ってて」と言って階段を上り自室に向かって行った。
私は仕方なく彼を待っていると、彼は着替えて階段を降りてきた。青のカッターシャツを着て、ベージュのパンツを穿き、胸には限定品のネックレスをしいている。
「兄貴も少しは服装を気にした方がいいよ。女の人と会うんだろ。」
「別にデートをするわけじゃないよ。」
「じゃあ、何をしに行くんだよ。」彼は心底不思議そうな顔をする。
「ミッションがあるんだよ。」
「なんだ、それ?」
正樹は職場まで電車を利用していた。家から駅まで離れている為、毎朝駅まで車で通っていた。その為、駅近くにある月極駐車場を契約している為、駅まで正樹の車で向かった。
「相手の子は可愛いの?」車を運転する正樹が言った。浮ついた声ではなく、落ち着いた言い方だからなのか、内容は下品だったが不快感がなかった。
「いや、顔すら知らないよ」
「顔も知らない相手に会うの? 兄貴はもっと人を疑った方がいいよ。」正樹は呆れた口調で言った。私はその言葉でせめて写真を見せてもらうべきだったと後悔した。
「疑ってるさ。『懐疑は知識への第一歩である。』がおれの哲学だよ。」私はせめてもの強がりを言う。
「なにそれ? 誰かの格言?」
「フランスの哲学者ドニ・ディドロの言葉。彼は元々神学研究を志していたんだけど、次第に信仰心を失い、有神論から無神論者になっているんだ。」
「なにがあったんだろうね?」
「彼はこんな言葉も残しているんだ。『私に神を信じて欲しいのなら、神に触れさせなければならぬ。』」
「なるほど。そりゃ、信仰心を持たせられないね。」
「彼は徹底した唯物論者なんだ。」
「唯物論? なにそれ?」
「唯物論の反対に唯心論というものがある。」
「ああ、心はあるか、って奴ね。」
「知ってるんだ?」
「詳しくは知らないけど、名前ぐらいはね。」
「じゃあ、これは知っているか?」と私は話し出す。「例えば正樹が3人に分身したとする。」
「おれが3人? なんだそれ?」正樹がはしゃいだ声を出す。
「3人のうちのどれが本当の正樹だと思う。」
「どれが本当の俺? 全部本物じゃなくて?」
「ああ、全員正樹だという考えもある。」
「違う考え方もあるんだ。」
「あるんだよ。」
「『心』がどこにあるか、で決まると考える人もいる。」
「心か。」正樹が運転しながら眉を顰める。「青を青だと認識するって奴ね。」
「そうだよ。自分を自分だと認識するものかな。」
「それが、心なの?」
「まぁ、これはおれの解釈だから。他人に説明したときに間違えだと指摘されても責任は持たないけど。」と前置きをする。
「勝手だなぁ。兄貴の哲学なんだろ。」正樹が眉を下げる。
「哲学の解釈なんて人それぞれだろ。」と私は都合良く言う。「その『心』も物理的な物に付随していると考えるのが唯物論なんだ。」
「それだと、3人の俺は全部本物なの?」
「そうだ。同じ物理特性を持った正樹は全て正樹以外何者でもないんだ。」
「なるほどな。唯物論はシンプルだな。」
「でも、面白いと思わないか? もし、正樹が3人に分身して、それぞれが別の生活をしたとして、それは1人の正樹だと言えるか?」
「いや、言えないだろ。」正樹が即答する。「例えば、RPGゲームを始めてたする。1日やって1度セーブする。翌日セーブデータからスタートして、例えば斧スキルを育てる。そして、別の場所にセーブする。その翌日に斧スキルが微妙だったからといって最初のセーブデータから始めて剣スキルを育てる。」正樹が早口で言う。
「斧スキルを育てた勇者と剣スキルを育てた勇者では、別物だよ。」
「でも、勇者は勇者だろ。」私は指摘する。
「いや、その斧使いの勇者は永遠に魔王を退治しに行くことはない。」正樹が残念そうに言う。「彼は偽勇者だよ。偽者だ。」
「偽勇者は可哀想だな。」私は存在もしない斧使い勇者に同情をする。