私は神が嫌い
「あなたは運命を信じる?」彼女はそう言って微笑んだ。先ほどまでの強張った表情は影を潜め、どこか憑物が取れたような優しい笑みだった。
「運命?」私はベートーベンの『運命』が頭に流れる。あの、心苦しさというか、独特の重みと緊張感は『運命』という逃れようのないものを表すのにこれ以上の表現はないように思えた。
「あのね、笑わないで聞いて欲しいんだけど…私は人それぞれの役目が与えられているのかもしれない、と思うときがあるの。」
「天命という奴かな。」
「違うの、天命は天が人に与えた使命でしょ。そうじゃなくて、人が愛する人達にやってあげること。」
「う〜ん、よく分からないな。天命とは何が違うの?」私は正直に答える。
「私は神が嫌いだから。」彼女は困ったような笑みを浮かべる。
「はっはは、神が嫌いなんだ。何かよっぽどの恨みでもあるのかな。」私は笑って答える。
「そうだね、私は私であることを恨んでいるの。」
「そう…なんだ。」私はどう返答するのが正しいのか分からず曖昧な返事をする。傍から見れば彼女は恵まれてように見える。人並み以上の外見、恵まれた職場、恵まれた才能。これ以上の高望みをしたらバチが当たるのではないか、と思った。だが、本人の苦しさは当人しか分からないものであり、それを他人がどうこう言うのは野暮だろう。
「うん、そうだね。私は、神が嫌い。」彼女はきっぱりと言った。
「そっか。」私はどう答えばいいか分からず短く答える。
「私は神が嫌い。」彼女はもう一度言った。
私は、うん、と頷く。
「私は神が嫌い。」彼女がまた言う。「私は神が嫌いよ。」彼女はなにかを訴えるように言った。そのとき、彼女が目から涙が溢れていることに気付いた。
「そっか。」と私は頷く。
「ごめんね。困るよね、そんなこと言われても。」と困っている私に気づき、彼女は涙を拭いながら笑う。「最近、ちょっと情緒が不安定で。」
「いや、別に大丈夫だよ。」昨日のことを思い出して感情の起伏の激しい女性なのだと思った。「なにか理由があるのかな?」
「私にとってこの世界は偽物なの。」
「偽物?」私は意味が分からず聞き返す。
「全て偽物なの。この肉も、このビールも、この割り箸も、このお店も。全て偽物なんだよ。」
「へぇー、そうなんだ。」私は彼女が酔っ払って哲学的なことを言い出したのかと思っていた。
「うん。そして、私自身も偽者なの。」
「君も偽者か。じゃあ、おれも偽者なのかな?」私は戯けて見せたつもりだった。
だが、彼女の反応は予想に反したものだった。
「そう、だったら、良かったのに、ね。」彼女は急に彼女の表情が暗くなる。私は美しい花が急に萎れたような感覚に襲われた。
「あのね、あなただけは本物なの。」彼女は目に涙を溜めたまま言った。
「おれは本物なの?」
「この世界は全て偽物の世界なの。本物はあなただけ。あなた以外すべてが偽物ものなの。」
私はどう答えれば良いのか分からず、黙っていると「あ〜あ、なんで私は偽者なのかな」と天井を見上げて呟いた。
「どうゆう意味なのかな?」
「いまは教えないよ。全ては最後に教えてあげる。」彼女は涙を浮かべて言った。