第8話
11月22日ぶん
……。
決めたことがなかなか出来ない……。
獣に近い体になってしまったあの日、どうにかフェナーチアの猛攻をかいくぐり簀巻きにすることで貞操の危機から脱することが出来た。ただ、吐いた唾は吞めぬという諺があるように、イルゥナとフェナーチアの距離は物理的に今までより近くなっていた。
「ちょっと、苦しいです」
「いいではないか。私はこうしていると心が落ち着くし、イルゥナだってこうされたいんだろう?」
「そうだとしても力を入れ過ぎですよ。あと、長時間するんだったら後ろからにしてください。いつも終わった後鼻か頬が痛くなるんです」
「それは、お前……。悪口ではないか……?」
現在、フェナーチアとイルゥナは正面から抱き合い、抱き心地を確かめるようなフェナーチアの動きに合わせてユラユラと横に揺れている。以前までであれば、対面はイルゥナからの説教から始まるというのに、ここ最近はいつもこうだ。
イルゥナが扉を薄く開けた途端にフェナーチアが飛んできて、正面から抱き留める。人間の形だったらいいと言ってしまった手前、拒むことが出来ないのかイルゥナはされるがまま。彼女の背に手を添えながら、余裕があれば顔を横にそらして離されるのを待っている。
この結果、良いことと悪いことが一つずつ発生した。
良いことは玄関から薬作りを行っているテーブルまでの動線が出来たこと。理由はこの状況を見れば分かる。イルゥナがやってきた時いつでも飛びつくことが出来るようにだ。やはり、以前までテーブルの上だけはしっかり片付いていたことから察することが出来るように、極度な面倒臭がりなだけであって掃除が出来ないわけでは無いらしい。
まあ、適当な場所に寄せているだけ、とも見れなくもないが……。
悪いことは薬作りに遅れがでていること。とはいっても、遅れているのは遊び半分で投函されたふざけた効能の薬だけであるため、街の住人達の生活が一変するような遅れがあるわけでは無い。ただ、あんなにも薬作りに熱を出していた彼女が他のことに現を抜かすようになると心配する者も出てくる。その最たる人物は、当然イルゥナだった。
魔法のことや魔術のこと、それから薬のこと等。以前まではキリリとした顔で他者の理解の有無は度外視に語っていたフェナーチア。もちろん学が浅いイルゥナにとって、彼女のお話は到底理解できるものでは無かった。それでもイルゥナが遠ざけず、むしろそんな姿が好きだったのは、語る時の真剣な表情とその奥で光る子供っぽいキラキラとした好奇心の輝きに焦がれたからだろう。
それが今では、自分の好きなことを放り出してまでイルゥナにかまってきている。真剣だった表情はだらしなく、キラキラとした好奇心に満ちた瞳はじめじめとした湿度を帯びている。不快とは思わなかった。不快ではなかったが、受け止められなかった。
「あの、フェナーチアさん。ちょっと相談したいことがあるんです」
「ん? なんだ? なんでもいいから言ってみてくれ。私で力になれることだったら極力力になろう。いや、絶対だ」
「ちょっと、長い時間ここに来れそうにないんです。少しの間、他の人にこの役目を変わってもらいたいんですが、いいですか?」
「……ん?」
それによって導き出した答えは、一度フェナーチアから離れることだった。
ただ、離れるにしても喧嘩別れのようなことはしたくないし、嘘もつきたくない。だから忙しくなるための理由を用意したうえで、イルゥナはそう告げる。意思は固く揺らぐことが無いのか、抱きしめる力が抜けても、目の前で困惑するフェナーチアの姿を見ても、イルゥナは真っ直ぐ彼女の瞳を見返していた。
「わ、私はこんなズボラな性格だぞ? 他の奴らを呼べるわけが無いだろう。それに庭には奇怪な植物だってあるし、誰だって逃げ出すさ」
「交代するのはガンズさんです。あの人なら怖がりませんし、きっとこの部屋を見たって大笑いするだけです」
「それはそれで嫌なのだが……。いやいや、それよりも! それよりも女一人の家に他の男を招くというのか!? も、もう一度考え直してくれよイルゥナ。そんなに大切なことなのか?」
「ガンズさんには奥さんもお子さんもいらっしゃいますし、ガンズさん奥さんの尻に敷かれてますからちょっとやそっとじゃ揺らぎませんよ。だから、大丈夫です」
言葉を投げかけても変わらない意思に、フェナーチアは2,3歩後退するとポテリと力なくその場に尻もちをついた。
きっと、今彼女は大切なものが抜け落ちていく感覚に襲われていることだろう。
「安心してください。これで終わりというわけでは無いので。全部やることが終わったらちゃんと戻ってきますから」
動かなくなったフェナーチアを前に、今日は薬は受け取れそうにないな、と手に持っていた母と自分手製の料理を彼女の前に置いてイルゥナは去っていった。去り際、扉を閉めようかと一瞬思考し、結果としてフェナーチアは森の中に消えていくイルゥナの背を見続けることとなったのであった。