六章 体育際 「ため息」
クラス会、課外授業と新たなクラスの交流会といえる行事が終わったことにより、僕のクラスは無事にヒエラルキーを確立できたようだ。どこのクラスも一緒だろうが、体育会系を中心にした「人気者グループ」、文化系を中心にした、「普通グループ」、残りが集まった、「余りものグループ」。向こう一年は、概ねこのグループ単位で行動することになる。これでクラス替え直後の微妙な人間関係の駆け引きは終息するだろう。
言うまでもないかも知れないが、僕が所属したのは「余りものグループ」だ。交流会には全部参加しているし、望めば「普通グループ」には入れたかもしれない。でも僕は別にこれでいい。普通にしていた結果がこうだというなら、それでいいのだ。人に気を使って、自分を殺して、必死で居場所を取り繕うぐらいなら。僕は僕らしくしていられる方がずっといい。
今日は久しぶりに学校を休んで公園へ行くことにした。言っておくが僕は別に悪いことはしていない。高校は義務教育ではないのだ。したがって、授業に参加しないのは違反でも違法でもない。卒業さえできれば両親に迷惑をかけることもないだろう。年間の2/3以上出席しないといけないとか、定期テストで一定以上の点をとらないといけないとか。よくよく考えてみれば、年間の1/3までは欠席してよくて、定期テストで一定以上の点さえ取ればいいということだ。いささか良識に欠けているかもしれないが、ただそれだけのこと。
学生服を着て自転車に乗り、駅に行く途中にある公園で止める。初夏の陽射しのぬくもりを受けて、ベンチに腰を掛けて文庫本を開く。僕は別に本が特別に好きというわけではない。家に居ればテレビゲームがあるし、学校に行った時はそれなりに真面目に授業を受けている。読書は、煩わしさから解放される瞬間を求めていつの間にかたどり着いたスタイルだ。スマホでも良いけど、すぐに電池が無くなるからな。本なら時間制限はない。読めば、まるで物語の主人公になったかのように簡単に現実を逃避できる。くだらない授業を狭い教室で受けるよりも。たまにはこうして、陽射しの中で本を読んで過ごした方がよほど人間らしい生き方をしていると思う。
――なのに……。
今日は頭に内容が入ってこない。どうやっても桜さんのことばかりが巡る。本というのは不思議と集中しない限り、その活字は何の話も生み出さない。誰かが老人になったら本も読めなくなると言っていた。視力の話だと思っていたのだけど、実際には集中力の問題らしい。なるほど、思いっきり実感したよ。いい加減にしてほしい。
「はぁ……」
ため息を一つ。諦めて僕は自身の気持ちと向き合う。とりあえず今日までのことをまとめよう。
・桜さんは中学の頃に告白し、ふられている。
・けれど、今でも好きで片想いをしているということ。
・にもかかわらず、球技大会の時に、彼氏(と、思われる人物)がいた。
・そしてつい最近、桜さんは泣いていた。
箇条書きをイメージしたのに文章になっている辺りから脳みそが腐っていると思った。それはともかく、謎解きとしてはまったくもって難解すぎる。ここは僕なりの解法をつかってこの情報を確定させるとしよう。不安や戸惑いは、わからないから生まれるのだ。間違っていてもいい。これだと思う答えが一つあれば、せめて不安になどはならない。だからこそ、僕は想像できるだけ最悪の方法で結びつける。こういう時は悪ければ悪いほどいい。それ以上悪いことがなければ、それがやってきたときにまだマシだと思えるからだ。
●案1 実はあの時の会話はすべて桜さんの作り話。今は彼氏がいて幸せいっぱい。僕にとっては最悪だ。けれど、桜さんは泣いていた。
これでは筋が通らないし、桜さんがそんな嘘をつくとは思えない……失敗。
●案2 あの時の会話は本当で、今でも桜さんは想いを引きずっている。そして、もう一度告白して、またしてもふられてしまった。
だとしたらあの時、僕に対してあんな表情は見せないと思う。……失敗。
●案3 あの会話は本当だけど、実はその後、うまくいっていたという落ち。それを明かす暇も無くクラスメイトに連れ去られたのだ。そしてあの時、桜さんは全く関係ないことで泣いていた。
これならつじつまがあう気がする……。よし、採用。
涙の理由がわからないからとはいえ、いくらなんでも強引すぎる。それは解っている。でも僕はこれを信じることに決めた。何があってもこのストーリーで行く。真実とは違っていてもいい。自分が納得できるストーリーならそれでいいのだ。この結論に希望的観測はいくらでも入り込める。でもそれをシャットアウトすることに意味があるのだ。これですっきりした。そしてもう一度、文庫本を開く。今度こそ静かに読めるはずだ。
――大好き、だよ!
けれど……。頭に浮かぶのはそう言った時の彼女の顔だった。
暖かさと同時に絶望が訪れる。どうしたらこのもどかしさから解放されて、僕は僕の「日常」に戻れるのだろうか。悶えるように空を見上げて、まぶしい太陽を見る。僕に葉っぱがあれば、あの光で元気になれるだろうに。
僕は文庫本を閉じて、もう一度、自転車にまたがった。
――学校に行こう。
そうすれば桜さんに会える。思いついたのは、それだけだった……。
実をいうと今日は体育祭なのだ。(それが故にサボろうと画策したわけだが。)学生というのは実に面倒な行事が多い。なぜ無駄に体を動かさなければならないのだ。見渡せば安永はしっかり休んでやがる。とはいえ実際の体育祭は思ったよりも暇だった。僕は結局、教室にいて自分の種目を待っている。「余りものグループ」である僕は、クラスメイトの応援に全力を注ぐ必要もない。だから桜さんが大変そうだったら今度こそ手伝いたいな、などと思ってぼんやりしていた。この思考が本気でクソだと思う。ところが今日に限ってその桜さんが見当たらない。彼女が学校行事に参加しないとは思えないのだが。
「よう!」
声をかけてきたのは佐藤だ。
「意外だな、休むと思っていたぜ?」
「心外な、安永と一緒にするなよ」
口ではこういったが、安永と一緒にされても文句はない。完全にサボるつもりだった。佐藤といつも通りの会話を交わす。
「ところで、桜さんは?」
何気ないフリをして聞いてみた。委員長と呼んだほうがいいかと思考したが、よく考えたら僕は桜さんのことを委員長と呼んだことはない。逆に不自然だ。
「そういや見てないな、なんか用だったのか?」
そう言われたら用なんかない。少し困ったが、相手は佐藤だ。
「まあね」
「そっか、見かけたら声かけとくよ」
「サンキュ」
相槌をうっておけば特に詮索などしてこない。佐藤は友達が多いのでこういうところはドライなのだろう。僕にとってはありがたい。
――そして。
結局、桜さん不在のまま体育祭は終わった。信じられないことだけど、終わってしまったのだ……。本当に、現実というのは僕の想像とはかけ離れている。今日、桜さんが学校に来ないのはおかしい。クラス全員が思っていてもおかしくないはずなのに、誰もそのことを口にしなかった。そして、クラスは打ち上げに行くという。結局、桜さんが仕切らなくても別の誰かが仕切って、うまくまとまる。なんたることだ。でも、僕はこう思いたい。桜さんがクラスをまとめようと、新学期早々にいろいろ企画したからこそ、今こうやってまとまっているのではないかと。全部、桜さんのおかげだ。そうじゃなきゃ、あまりにも報われないではないか。僕はその打ち上げに一次会までは付き合うことにした。桜さんが途中で来るかもしれない。思って自分で少し笑う。これまで、こんな会に参加するなんて考えたことすらなかったのに。たかが恋で人はこんなにも変わるものだな。その時が来てしまったら、自分ではいられなくなるのだ。だから、僕は最初からこうなりたくなかった。
「そういえば、今日は委員長どうしたんだ?」
打ち上げのどこかの席でやっとその声を聴いた。その言葉に耳が向く。
「さあ?誰か知っている人いない?」
その言葉に返事をする人は誰もいなかった。一体どうしたというのだろう。そしてすぐに再び歓談が始まってしまい、僕の疑問は解決しなかった。
「お前、委員長の事どう思う?」
次に飛び込んできたのはそんな言葉だった。
「どういう意味?」
僕の耳はアンテナか。どうしてか「委員長」という言葉を拾ってしまう。
「面倒くさくね?」
その言葉に、僕はゾクリとした。まるで全身の毛が逆立ったような気分だった。
「ああ……確かに、優等生っぽくて付き合いづらいとこあるよな。打算でやってるとしたら最悪。あれで、もう少し可愛かったら許せるんだろうけど」
アイツらは何も解ってない。誰かのために何かをしようなんて本気で考える。そんな人のひたむきさを踏みにじるような言葉だ。何より桜さんは可愛い!僕は思わず席を蹴飛ばすような勢いで立ち上がった。その影響でちょっとだけ静かになる。
――おい、お前ら!
僕は自分でも信じられないぐらい腹が立った。今まで本気で怒っても何かをしようなんて思ったことはない。けれどこの時だけは違ったと思う。
……それでも、その言葉は出なかった。苛立ちを抑えて顔を洗いに行く。手洗い所の扉を閉める頃には、怒りは自分に向いていた。僕には怒る勇気も権利もない。
結局、最後まで桜さんは現れなかった。二次会はカラオケということで僕は遠慮させてもらう。人前で歌を歌うなんて恥ずかしいだけだ。僕には理解できない。どうせ桜さんも来ないだろうし。僕は熱くなった体を連れて帰路に着く。それは夏の気温のせいか、はたまた自分の気持ちのせいだったのか。どうしてこうなったのかはわからない。偶然にも桜さんが泣いていた河原を通りかかって、思わず立ち寄る。
「今日は、逢えなかったな……」
月の見えない夏の夜空を見上げて、ため息をついた。ため息をつくと幸せは逃げていくというが、そもそも逃げていく幸せすらない男はどうしたらいいというのか。
「卑屈すぎるな」
僕はそうぼやいて、立ち上がった。悲壮しているわけではない。ただ冷静に考えて、はっきりと現実を痛感しているだけだ。どんなに惨めな気持ちになったとしても。僕は決して、現実から逃げたりはしない。「解る」ことは事実なのだ。泣いていた後なのに、元気な声をかけてくれた桜さんを思い出す。何よりも悔しいことは、その時に桜さんが何を思っていたか、僕にはまるで想像がつかないことだ。
――もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。
そうやって生きてきたつもりだったのに、僕はまた狂ってしまった。




