四章 放課後の帰り道 「涙」
「なあ、和一。お前、将来何になりたい?」
唐突にそう聞いてきたのは安永だ。
「なんだよ、いきなり」
「いや、俺、正直。今、悩んでいてさ……」
安永が何を悩んでいるか。はっきり言って興味はない。けれど、ここでそれを聞かないのはあまりにも友達がいがないだろう。社交辞令だが一応聞いておくことにした。
「何に?」
と、聞いた僕に、安永は逆に聞き返してきた。
「お前、好きな人とかいる?」
一瞬、胸がドキッとした。確かに一人だけ胸を過る人物がいたが、それは過っただけにすぎない。違う、絶対に違う。そういう感情ではない。僕は一瞬にして巻き起こったその感情を飲み込んでさらりと答えた。
「別に、いない」
「まさか……」
安永は勝手に話を進める。
「まだ、あの時のことが……?」
おそらく中学の頃を指して言っているのだろうが、勝手に想像してほしくないものだ。僕はうんざりしたように答えた。
「それは思い出したくもない」
「そ、そうか……」
一瞬重い空気が流れたが、それは詮無きこと。この内容からすると安永はおそらく、恋愛の相談をしたいのではないだろうか。回りくどい話だが、気持ちはわからないでもない。僕も相談をするときはすぐに本題に入れずに、しょうもない話をよくしたものだ。挙句、関係ないところで盛り上がって、やきもきしたこともある。まあ、それも今となっては若気の至りだ。だから僕は逆に聞いてやる。
「好きな人でもできたのか?」
「うっ!」
安永は一瞬ギクッとしたような表情をした。なんて分かりやすい反応だ。
「で、誰だ?」
僕は安永の相談に本気で乗る気はない。だが、他人の恋愛について好奇心がまったくないわけでもない。逆の立場になってはっきりとわかる。他人の恋愛は第三者でいる限り面白いのだ。
「委員長の……」
その言葉に僕は一瞬ハッとした。が、別に安永が桜さんのことを好きでも構わない。僕には関係がない。応援だってしてやる。……多分、叶わぬ恋だと思うけど。桜さんには彼氏がいるしな。
「友達の牧野さん」
あ、そっちか。牧野さんを思い浮かべる。ウェーブがかかった長い髪が特徴で少しカラーも入れている。切れ長の目をした如何にも美人といった風貌で外見はクラスで1,2を争うだろう。正直、僕はあまり好きになれない。桜さんのことを、「委員長」って呼ぶ女友達だ。でも美人なのは確か。その辺りはさすがに僕も男なのだ。そうでなければ多分、顔も名前も覚えていなかったと思う。
「どこがいいんだ?」
「いや、あの……、って言わすなよ!」
全くもって面倒くさい。情報一つ聞くのも持ち上げながらでないといけないとは。「あの頃」の僕もこんな風に面倒な人だったのだろう。だがその時の自分を痛いほど覚えているから、邪険になどできない。安永は自分の気持ちに舞い上がっている。この先のやりとりはどうでもいい上に、話が長いので要約する。「なんやかんやあって、彼女が安永に優しくしてくれた」ということらしい。でも僕が思うにそれは勘違いに他ならない。けれど本人がそう思い込んだ時点で、それは本人にとって事実なのだ。勘違いであっても、そう思っている時点では幸福なことなのだ。だから僕はあえて水を差す気はない。何をいっても無駄なのだ。煽らない程度に肯定してやることしかできない。なぜなら本人は未来を夢見て、今この瞬間にときめきを感じているのだ。僕は同じ思いをしたから、よくわかる。こうなったらもう止まらないのだ。
だから、僕は二度と燃え上がりたくない。僕はずっと冷静でいたい。恋愛感情は勘違いから始まり、暴走する。熱は燃え、世界中が自分を祝福しているように思える。けれど、現実はもっと冷たく、そこに佇んでいるのだ。
その後も安永の話は続き、佐藤の部活帰りを待つことになった。時間はもう大分遅くなってしまっている。安永がわざわざ佐藤にも相談したいというのだ。まあ確かに彼女がいる佐藤の方が、僕よりも相談相手にはふさわしいと思う。一人で相談するのはアレだから一緒に来いと、僕まで佐藤を待つことになった。僕は知っている。安永はただ話をして、誰かに肯定してほしいだけなのだ。否定的なことを言うと、安永は大事そうに彼のエピソードを語る。別に事実なのだろうが、それは安永が都合の良いように解釈しただけのことだ。僕にはそれがわかる。でも、それは僕が安永ではないからだ。第三者だからわかる。安永もそれが、細い道だと知っていながら、信じたいから肯定してくれそうな人に話すのだ。
部活から帰ってきた佐藤を捕まえたらファーストフード店へ。学校はそろそろ最終下校時刻だ。夕暮れの道を少し歩いて、男3人での食事する。たまにはこんなに時間も悪くはない。そして佐藤も僕と似たように、煽りもしない程度に安永を肯定して終わった。もちろん、適当にアドバイスなどもしてみたが、何の足しにもならないだろう。安永は歓喜に打ち震えて、何度もありがとうといって家路についた。その後、佐藤とも別れて一人になった。
ファーストフード店に寄って帰ったせいで、いつもと違う帰り道。駅近くの川沿いで、ふと脚を止める。妙に月が綺麗だった。満月というだけではなく、雲空の隙間から淡い光が筋のように伸びている。まるで木漏れ日のようだ。ふらふらと。僕は誘われるように河原まで歩いた。僕はこの変わらない日々の中で、綺麗なものを綺麗だと思う感性までは失いたくないと思っている。だから、河原で腰を下ろして空を見た。ほんの少しだけ、いつもと違う日常。
「これだけで、僕には十分だ」
静かにこうしていたかった。昔のことを思い出してしまったせいで、少し感傷的になっていたような気がする。ため息をつこうとした刹那。
「ごめんね……」
人の声らしき物音がした。はっきり言おう。ものすごく驚いた。全身に鳥肌が立っている始末だ。河原は静寂と暗闇に包まれている。そこに聞こえてきたのは、泣き声のようだった。恐る恐る。僕はその声の元をたどる。僕の存在を気取られないように。背筋が凍るとか、身の毛もよだつとか、こういう時の状態を言うのだろう。声……というか物音に近いのだけど、それをたどって歩いた。そこにいたのは、僕が想像すらしなかった人物だった。
世に。「事実は小説よりも奇なり」といった人がいるという。しかしながら小説というのは何でもアリだ。決してそれ以上の現実など起こるはずもない。僕は正直、その言葉を馬鹿にしていた。だが、今日という日はさすがにその言葉を真摯に受け止めなければならないだろう。
そこにいたのは、桜さんだったのだ。しかも泣いている。彼女は光の中に生きている人で、涙とは縁遠い人だと思っていた。そんな人がこんなところで泣いている。そこへ、あろうことか、この僕が立ち会うことになるなんて。こんな偶然の中の偶然は想像出来ない。着想が無ければ小説家だって物語を書くことは出来ないのだ。とにかくこうなった以上、僕は現実と向き合ってこれからの行動を決めなければいけない。実にややこしいものだ。事態が想定できない。例の彼氏と喧嘩でもしたのだろうか。だとしたら僕の出る幕はない。それに泣いているところを人には見られたくないだろう。
けれど僕の胸の奥に別の想いが広がる。
――今、僕に何かできることはないだろうか?
ただ、黙って立ち去ることが最も良い答えなのか。相談に乗ってあげることぐらい、できるとは思うけれど……。いやいや、彼女は僕なんかに事情を話す気にならないだろう。
臆病者。
誰かが、そう言った気がした。
ここから立ち去ることは簡単なのだ。ただ、黙していればいい。
気持ちに蓋をして背を向ける、彼女は気づかないだろう。
流れに身を任せればいい。
そして、同じように。
声をかけることも簡単なのだ。ただ一歩を踏み出すだけでいい。
砂利の擦れる音で、彼女は振り向くだろう。
心に身を任せればいい。
偽善者。
かつて、誰かにそう言った。
僕にできることは本当にないのだろうか?
何もしないことに後悔をしないだろうか?
考えは巡るけれど答えは出ない。そして、風が吹いた。月夜の風の匂いに、彼女の甘い匂いが混じる。その瞬間にハッとなった。ここに居てはいけない。僕はきっと何もできやしない。興味本位で彼女の世界に土足で踏み込むよりも、静かに立ち去るべきだ。きっとそれで正しい。そう決めた瞬間、何故か少し胸が痛くなった。願う未来と歩む現実はいつも違う。けれど、それでも僕たちは現実の中から進む道を決める。間違っていたとしても、後で正しかったと言えるように決める。それは逃げることでも、負けることでもない。ちゃんと迷って悩んで選んで、進んでいる限り。
桜さんに気が付かれないように、僕はそっと道を戻った。自分では満足のいく決断だった。きっと後悔はしない。そう思えた。けれど……。僕が必死で考えて、見出した結論に満足して、立ち去ろうとした刹那。急に風向きは変わった。目が慣れてきた僕には桜さんがこっちへ振り向いたのが見えた。残念なことに目が合ってしまった。
「誰!?」
悲鳴じみた、おびえた声が聞こえた。無理もないだろう。「事実は小説より奇なり。」敢えて言いたい、そうではないと。現実は小説のように、誰か一人の思惑の上には動かない。ただ、それだけのことなのだ。現実は混じりあう、たくさんの人の意思と願いと、ほんの少しの偶然で成り立っている。だからこそ、たった一人の主観で事象をとらえることができない。小説は書くのはいつも筆者一人だけれど、現実を描くのは、無数の人の営みの中から生まれる何かだ。
僕は鳥のように美しく立ち去ろうとしていたのに、現実はそれを許してくれなかった。なんとかごまかそうと脳内をフル回転させる。が、もうこの時点で僕は疲労困憊だった。諦めて彼女に声をかける。
「こんばんは」
阿呆だ、僕は。本気でそう思った。思いついた言葉はそれだけだったのだ。
「え、平和くん……?」
声色は緊張のため少し変わっていたが、いつもの桜さんだった。
「ん、よく分かったね」
僕の思考回路はほとんどショートしている。考えると沈黙が訪れそうで怖いから、とにかく言葉を紡ぐ。
「声で、なんとなく……。どうしてここに?」
桜さんは考えている。それはなんとなく伝わってきた。桜さんも僕と同じように、それまでの思考をさえぎられてしまったのだろう。
「月が、綺麗だったから。」
僕はもう考えられていない。沈黙を恐れる僕はなんとか声を捻り出す。
「ん……」
言われて、桜さんは曇空を見上げた。
「ほんとだね!」
いつものように、いつもの声で、桜さんは答えてくれた。なんだ、思ったよりも大丈夫そうじゃないか。どうせ何もできなかっただろうけど、僕はその声で安堵した。
――それじゃあ……。
別れの言葉を言おうとして、僕は黙ってしまった。何故だか体が動かない。訪れたのは沈黙……。でも不思議と気まずいというわけではなかった。静かに、二人で空を見上げる。どれくらいそうしていただろう。
「もしかして、さっきのを見てた……?」
沈黙を押し切って、申し訳なさそうに、桜さんは僕に尋ねた。桜さんは僕のほうを見ている。それには気が付いていたけれど、僕は相変わらず空を見上げたまま答えた。
「何のこと?」
そして、またしても沈黙が続いた。もしかしたら桜さんにとっては、気まずい時間だったかもしれない。けど、僕にとっては悪くなかった。何故だか理由はわからない。こんな偶然はきっと、この先にはもうないだろう。僕は今、夜の河原で桜さんと二人きりで会話をして、綺麗な月を見上げている。この時間がどうにも悪くない。けれどこんな時間、長くは続かないだろう。
「じゃあ、帰るよ」
必ず終わりが来るのなら。未練が残りそうになる前に、自ら切り出した。どうやらやっと、冷静さを取り戻すことができたようだ。桜さんはその言葉を聞いて、静かに僕のほうを見る。
「そうだね」
桜さんはそうつぶやいて、こちらに向かって歩き出す。そのまま軽やかに河原と道路の間にある階段を登っていった。わずかに涙をふく素振りをみせながら、駅のほうへ向かっていく。
「行こう、平和くん!」
そして僕のほうを見て月明かりに微笑む。その笑顔が妙に眩しかったので僕は瞳を反らしてもう一度、月を見た。今日という日は、割と悪くないかも知れない。その時、そう思った。
しかし、僕は完全に油断していた。朝、同じ駅で会うことがあるということは同じ駅で降りるということだ。その日、僕と桜さんが同じ電車に乗って帰るのは必然といっていい。この時になってやっと、僕は普段らしい感情が芽生えた。
「気まずい……」
この期に及んで話すことがあまりにもない。僕の安っぽい脳みそはここで桜さんが、「ありがとう」だとか「優しいね」だとか言ってくれることを期待している。今日、3度目だけど、もう一度引用する。「事実は小説より奇なり」、あれは別の側面で言うと、こういうことだ。僕が想像した時点でおそらく桜さんはそんな言葉など言わない。現実は想像するようにはいかないのだから。だとしたら僕が想像できない何かを言うに決まっている。
「ねえ、平和君」
僕はできるだけ桜さんの立場で考える。何を考えているか、何を思っているか。考えてみて、気がついた。僕には彼女の立場がそもそも想像できない。そうだ、僕は彼女のことをほとんど知らないのだ。
「月夜ちゃんのこと、覚えてる?」
発せられた言葉は予想通り、「予想していなかった言葉」だ。質問の意味が全く解らない。月夜ではなく、月夜。人の名前のようだけど、全く心当たりが無かった。
「ごめん、わからない」
僕はもう普通に答えた。この後、彼女がいろいろ教えてくれて、時間を稼ぐことができればいい。しかしその後の会話も全く、「予想していなかった言葉」だ。
「そっか、そうだよね……」
桜さんは寂しそうにそう答えた。……それで、終わりだった。正直、このとりとめのなさは僕にはどうしようもない。なにか突っ込んで聞いてみようかとも思ったのだが、その勇気がどうにも沸いてこない。たかが7分の駅間が物凄く長いと感じた。けれど、駅についてみれば意外と短かった気がする。不思議なものだ。
「じゃあ、また明日ね!」
そういって桜さんは踵を返す。さっきまでの寂しそうな表情が嘘のようだ。
――夜遅いから送っていこうか?
そんな言葉を言うかどうか迷っている僕を尻目に。桜さんは元気そうに手を振って、道の向こうへ消えていった。
甘い月夜の空、気まずい電車の中、そして、残った独りの帰り道。何かあったようで、何もない夜。そう、僕の日々はやっぱりこうやって何事もなく過ぎていく。
後日、僕はインターネットで月夜のことを詳しく調べてみた。でも、やっぱり桜さんの意図はさっぱりわからなかった。もちろん、彼女が泣いていた理由はそれ以上にわからない。もしこれが小説ならば、最後にはその理由がすべて明かされていくのだろう。けど、きっと僕は最後までこの理由を知ることはない。
――現実は、決して思い通りには行かない。
それなのに、立ち止まることを許さない。
手をこまねいていたら、ただ突き落とされるだけだ。