十一章 文化祭 「また、明日」
文化祭当日は思ったよりも忙しかった。実をいうと中学の頃は運営する方だったし、去年はサボっていたから、まともに参加するのは今回が初めてだったりする。もっとも……。担当の時間なのに抜け出すヤツがいたり、予定していたものがなかったりと、イレギュラーな処理に追われることが忙しさの主な原因なのだが。
「平和、すまん、相方と一緒にイベントにでなきゃいけなくなったんだ。代打、頼めないか?」
そういってきたのは佐藤だ。目の前で手を合わせて頼んできている友人をどうして断れよう。別に予定があるわけでもないし……。
「行ってらっしゃい」
僕はパタパタと手を振って見せた。
「すまん、恩に着る!」
そういって佐藤は教室を出ていった。……佐藤はともかく。どうにもこのクラスの連中は目が離せない。目先のことしか考えていないというか、ほっといたら何をするかわからないというか。そういえば桜さんの姿も見えない。ますますもって、どうしようもない状況だ。まったく、中学生でも、もうちょっとまとまりがあったぞ。そんなことを思いながら、なんだか久しぶりに。僕は他人のために奔走していた。別にクラスの連中に恩があるわけではないし、恩を売りたいわけでもない。おせっかいをして失敗することもあれば、計算を間違って逆に迷惑をかけることもある。基本的に僕はおっちょこちょいだ。だけど僕が奔走した分、誰かが今日を楽しんでくれたらいい。そんなことを真剣に思っていた。もちろん僕はいつもこんなことを考えているお人好しではない。ただ、一番好きな人に何もできないから。せめて僕が誰かにできることがあるとしたら、それをしたいと思った。いわば無念のはけ口みたいなものだ。でも不思議と惨めだとか、卑屈だとか、哀れだとか、そんな風に思わない。もしも僕の行いで今日、助かった人がいたとしたら、それは僕じゃなくて桜さんに感謝して欲しい。そんな風に思っていた。
苦い想い出の文化祭。でも、なんてことはなかった。嫌な過去を思い出すとか言っていた自分が、あまりにもくだらなく思えた。人は変わらないのではない。放っておけば変わるものなのだ。そこに居続けようとしない限り。僕は「初恋」の悲劇以来、ずっと頑なだった。自分を認めようとしないあまり、痛みも分からなくなっていた。寂しいのに平気なつもりでいた。僕は勘違いして空回りするのを恐れるあまり、殻に閉じこもって自分を守ることしかしていなかった。そのくせに自分は不幸だと思っていた。手に入れようとしないで、与えられないことを嘆いていた。
桜さんと何か「特別」なことがあったわけではない。でも、何故だろう。急に世界が変わったように思えた。僕はずっと、どうかしていたのか?それとも、今の僕がどうかしているのか?どちらかは解らない。でも、もうこの気持ちに背を向けることはしたくないと思った。僕が好きになった人はきっと、そんな生き方を嫌う。彼女を好きでいたいのなら、僕は自分の気持ちを否定してはいけない。そう思った。
文化祭が終わった後に、後夜祭というイベントが設けられているらしい。内容をクラスメイトに聞いたら皮肉だが今日、クラスの催しを抜け出した連中のためのようなイベントである。今までの事はある意味、前座のようなものか。そこに尽力した僕は、なんだかいかにもそれらしい。
――ふと、当時の自分を思い出す。
あの頃は他人のために自分を犠牲にするのは美徳だと思っていた。道徳の時間にも習ったし、両親にもそう育てられた。だから大好きなゲームをする時間も、友達と遊ぶことも削っていた。なのに、それは全て「勘違い」だった。僕は結局、誰かに認められたかっただけなのだ。見返りを求めて失敗を恐れていた。そして、失恋した時に初めて自分が欺瞞に満ちていることを思い知った。僕は結局、自分のためにしか生きていなかった。何もかもが嫌になった。
でも今は少し違う。損しても、失敗しても。それもひっくるめて、それでいいと思う。誰に感謝されることもなく、誰に褒められるでもなく、もうすぐ文化祭が終わる。あんなに嫌がっていたはずなのに、今日という日は悪くないと思った。何故だか分からない。でも、そう思ったのだ。だから僕は静かに帰り支度を始めた。誰も僕には気がつかないだろう。鞄に荷物を詰めて教室を出る。これからのイベントに向けて浮足立っているクラスの連中を見て、なんだか親近感が沸いた。もし僕がこれから桜さんと話すとしたら、あんな感じになるだろうな。そう思うと見ていて悪い気はしない。今日はずいぶんと自分でもおせっかいをしたと思う。ついでだから、もう一つ祈ってやる。どうか、彼らが彼らの望む未来を手に入れることができますように――。
静かに教室を後にする。何故だか妙に心地いい。もう一度、あの頃に思っていたことを信じてもいいのかもしれない。そんなことを考えながら昇降口を後にしようとしたとき、急に鞄が重たい気がした。未練はないはずなのだが……。
「帰ろうとしてない?」
気分の問題じゃなく。実際に重たかった。そう言って僕の鞄を掴んでいたのは、なんと桜さんだ。彼女がわざわざ僕を呼び止める理由はないはず。それなのに彼女は、現実として僕を引き留めていた。意図が全くわからない。
「その……、もしよかったら、ちょっとだけお話しない?」
僕は人違いかと辺りを確認しそうになったが、彼女が掴んでいるのは間違いなく僕の鞄だ。これは何の罠だろうか。いいことが起こった後には必ず悪いことがある。僕の警戒心は最大値まで上がっていた。だが、この申し出を断ることはできやしない。
「別に、構わないよ」
そう答えたら桜さんは、ほっとしたような表情をした。まさか僕ごときに声をかけるのに緊張でもしていたのだろうか。それとも、この後面倒なことでも頼まれるのかな。別に何も気にしなくていいのに。僕は君の力になれるのなら、何だってしたい。というか、むしろ頼ってくれ。それは間違いなく嬉しいことだ。
「今日はごめんね、なんかクラスの仕事、全部やってもらっちゃって」
そういえば今日は桜さん、どこへ行っていたのだろう。少年誌野郎とでも回ったのかな。……もしかして。そのことで何かあったとか。これは覚悟して臨まなきゃいけない。僕は心の中で勝手にそんな想像をしていた。
「ここじゃアレだから、外いかない?」
そういって桜さんは下履きに履き替えた。夕暮れの近い校庭では生徒会役員と文化際実行委員の人たちがてんやわんやで後夜祭の準備をしている。いつの間にか校庭には巨大な木組みがされていた。どうやらキャンプファイヤーをやるようだ。さすが高校ともなると催し事のスケールも違う。
「大変そうだなぁ……」
僕は思わず口走っていた。
「さすが元生徒会長だね!」
何故だか嬉しそうに言って、校庭と校舎の間にある石段にちょこんと腰を下ろした。そしてなかなか腰を下ろさずにいる僕の方を仰ぎみて、ポンポンと隣の地面を叩く。他の人がどう思うか知らないが、彼女のその仕草は可愛くて仕方なかった。僕はそれを受けて変な汗をかきながらも隣に腰を下ろす。思ったよりも近くに腰を下ろしてしまったせいか、肩が少し触れた。僕は驚いた子猫のように、ほんの少し距離をあけて座り直す。
「ごめんね、迷惑じゃなかった?」
こんな至近距離で眼を合わせられるわけもなく。僕は依然として校庭を見たまま返事をする。校庭の石段はかなりの高さがある。おまけに西向きだから、綺麗な夕日が見えた。
「い、いや、別に……」
これから不幸になることを覚悟して、僕は彼女の声を聴く。
「でも、ちゃんとお礼を言っておかないといけないと思って。今日はありがとう」
何に対してのお礼なのか、僕には皆目見当がつかなかった。
「えっ、僕が何かしたっけ?」
「うん……、今日、私はずっとクラスにいるつもりだったのだけど。平和君が引っ張ってくれていたから、安心して抜け出しちゃいました!」
ああ、そういうことだったのか。途中からいなくなったなぁ、とは思っていたけど。僕がクラスを引っ張る……そんな状態では全くなかったな。なのに桜さんは僕のことをまたしても良いように勘違いしているようだ。
「でも、ちゃんと担当の時間には居たでしょ。悪いことはないと思うけどな」
確かに桜さんの性格ならボランティアというか、善意でずっとクラスに居そうだ。もちろん彼女には当たり前に自由時間がある。その間、何をしていようと彼女の勝手だ。
「う~……でも、頼っちゃいけないと思ってたの」
「気にしなくていいのに。何か用事があったんでしょ?」
僕は何気なく聞いたつもりだった。
「……ごめんなさい」
桜さんは心底申し訳なさそうにそう言った。とても真剣に。それだけだった。だから僕は勝手に想像した。少年誌野郎のことだ。そりゃそうだ、せっかくの文化祭に思い出を作らない方がおかしい。不幸は必ず起こる。けれどこれは予想していた……というよりも初めからわかっていた結果だ。だからショックをうけることなどない。なのに、僕の心は何かに射抜かれたように落ち込んでいた。
「平和君も予定とかあったかもしれないのに……」
そういわれて初めて僕は桜さんの方をみた。嗚呼……。この人は、本当に。人の事ばかり考えて損をするような人なのだ。自分のことばかり考えていた僕とは違う。そう思った。
「別に、予定なんかないよ。そもそもサボるつもりだったし」
少しぐらい「僕がいい人」だと思っている桜さんの誤解を解きたくて、僕はあえて突き放すように答えた。
「そんなこと言って、本当は一緒に回りたい人とかいたんじゃない?」
桜さんが茶化すように言った。彼女にとっては冗談のつもりだったのだろう。軽い言葉だったはずだ。それなのに僕はその言葉が許せなかった。僕がもし一緒に回りたいと思う相手がいるならそれは、今、目の前にいる人だ。僕がどれだけ絶望的な気持ちで君を想っているか。そんなの君には関係ない。けれど僕にはその言葉が許せなかった。やっと出会えた瞳を反らして僕はまた校庭の方を見る。
「仮にいたとしても。その人は僕なんかとは一緒に回りたくないだろうさ」
僕は思い切り皮肉を込めて言ったつもりだ。ただ、彼女は僕の気持ちなんか知らないから皮肉にはなどならない。自分は好きな人と回っていたくせに、僕にこんなことを言わせないでほしい。僕はこの時、どんなに大切でどんなに好きな相手でも、苛立ちを覚えることはあるのだと知った。悪いのは全部自分だと知っていたのにもかかわらず。
「平和君は格好いいよ」
「え!?」
予想外の言葉に僕はびっくりする。どうやら彼女はじっと僕を見ているようだ。もう一度、彼女を見てもいいのだろうか。良く考えたらこんな至近距離で彼女を見ることはもうないかもしれない。だから僕は震える心をなだめて、もう一度、彼女を見た。
「私、桜 咲夜はそう思います」
瞳の中に僕が映っていた。この人は僕の事を何にも知りはしない。こんなの社交辞令にすぎないし、仮に何かを含んでいたとしてもそれは勘違いだ。桜さんはきっと誰にでもこんな風に言うのだろう。でもその言葉は、その瞳は、僕の胸に響いてしまった。
「優しいし、誠実だし……。 平和君みたいな彼氏がいたら幸せだと思うよ」
無邪気に桜さんは続ける。僕は知っている。女の子は本当にそう思っている相手には決してこんなことを言わない。そんなこと言うなら責任を持って僕と付き合ってほしい。わかっている。全部、解っているのだ。なのに……。桜さんは僕の方をじっと見て、そう言ってくれている。気を持たせようとしているのだ、と思う人がいるかもしれない。だが、それについては真っ向から否定できる。桜さんが僕なんかに気を持たせてもいいことはないからだ。多分、きっと。僕がずっと見てきた彼女なら、本気で言ってくれている。そういう人なのだ。彼女は純粋に僕を励まそうとしている。ただ、それだけなのだ。だから嬉しいと思わないわけにはいかない。彼女の目が僕を見てくれている。何かを期待したいとは思わない。けれど、彼女に勘違いされているのは嫌だ。僕は卑怯な人間なのだ。
この日この時、僕は初めて彼女に気持ちを伝えたいと思った。迷惑なのはわかっている。間違いなく届かないことは分かっている。だから僕はただ……この想いを静かに治めて、終わりにしたかった。でもそれはずるいのだ。僕のことをまっすぐに見てくれている人に対して、隠していい想いじゃないと思う。そんな風に感じてしまった。
「ありがとう」
向き直ってはっきりと言った。一瞬芽生えたあの苛々は、もう完全に消えている。逆に僕の中に小さな罪悪感が芽生えた。今までは彼女を想っていることが許せなかった。でも想っていて隠していることが、もう一つ許せなくなった。はっきりと伝えて、ちゃんと拒絶してもらうべきだ。そうすれば彼女はこうやって僕を見ないだろう。僕を褒めないだろう。……こんな風に一緒に居てはくれないだろう。僕は気持ちを隠すことで、彼女の善意を悪用しているのだ。こんな僕が彼女にどんな言葉をかけられるだろう。僕は黙っているしかなかった。今までなかった沈黙が続く。さすがにこの時間は気まずかった。僕は今日、自分の考えが万能でないことを思い知った。
「綺麗だね」
桜さんは立ち上がって夕焼けに染まるグランドを見た。僕はそう言う彼女に見とれそうになった。彼女は僕が感じた気まずさなど、微塵も感じていない。前をまっすぐに見ている。同じ歳なのにどうしてこんなにも違うのだろう。僕だって人生それなりにあったつもりだ。けれど彼女は僕よりもずっと強く、ずっと優しく、澄んだ目をして夕日の向こうを見据えている。
「うん、綺麗だ」
僕がそう答えたのは、夕日を指してのことじゃない。目の前にいる人を心底そうだと思ったからだ。
「……さすが平和君。そういうとこ、好きだよ」
その言葉を聞いて僕はまたしても、ずるいと思いながら、顔が真っ赤になった。今が夕焼けでよかった。
しばらくの間、僕たちは夕日を眺めていた。ところが、ふいに少年誌野郎から聞いた名前を思い出す。
「そういえば、御影さんのことなんだけど……。」
あの時の夜のこと……聞かない方が良いことなのかもしれない。でも、聞くなら今しかないと思った。
「月夜ちゃんを思い出したの!?」
桜さんは驚きを隠さずに、詰め寄るように聞いた。
「いや、ごめん。ちょっと名前を聞いて……」
「そう、そっか……」
とても残念そうに、そうつぶやいた。
そして、意を決したように言う。
「月夜ちゃんはね、私たちの友達で、クラスメイトだよ」
そうか、桜さんの友達……。そしてクラスメイト?どういうことだ。それなら、僕だって知っていなきゃおかしい。
「妖魔はね、『存在』を食らうの。だから、最初から居なかったことになる」
ちょっと待て、それって……。
「クラス会では、平和君とも楽しそうにしていたんだよ。二人でスマホゲームしてたのを見てちょっと羨ましかったんだ」
そんな記憶、全くない。でも心当たりはある。妙に減っていたバッテリー。あれは意地悪でもなんでもなくて……。
「ごめん、もういかなきゃ……」
桜さんが急に慌てた顔をした。まだ後夜祭は始まってすらいない。
「えっ、後夜祭は?」
僕は思わず聞き返した。
「今日は月が出ない日だから……」
僕はその瞬間に、はっとなった。そういえば、いつだって桜さんが学校に居ない日は月の無い夜だった。そして気がつく。
――桜さんが「非現実」に負けてしまったら、もう話せない。
そして、その場合、僕は彼女を忘れてしまうのか?すでに居なくなった御影さんのように……。僕は急に自分が恥ずかしくなった。僕は本当に、彼女を好きでいる資格すらない。きっと、桜さんは僕が「日常」と呼んで蔑んでいた日々を何よりも大切に生きている。今、この瞬間もこれが最後になるかもしれないと思っているに違いない。この人は一体どれだけのものを背負って笑っているのだろう。僕は知っていたはずなのにその重さに気がつかなかった。そんな彼女に僕ができることと言ったら……。
「平和君……?」
桜さんは驚いた顔していた。そりゃそうだ。僕自身、自分の行動に驚いている。僕は桜さん手を両手で掴んでいた。手は汗で湿っていたかもしれない。声は震えていたかもしれない。けれど、僕は心の底から一言だけ絞り出して、その言葉に自分の想いを全て込めて彼女に伝えた。
「また、明日」
その言霊は桜さんに伝わっただろうか。それが僕の精一杯だった。それだけ言って、僕は彼女の手を放した。
「うん……」
彼女は少し俯いて、何かを言いたそうな顔をした。けれど、その言葉は飲み込んでしまったようだ。
「また、明日!」
そういった桜さんの表情はいつもの大好きな笑顔だった。初めてまともに話した時と同じように、手を振りながら彼女は沈む夕日の先へ消えていった。
彼女は初めからいろんな物を持っている人だと思っていた。でも、そうじゃない。彼女はいつも必死で「今」を守っている。僕の人生は彼女のものに比べたら、なんと薄っぺらなのだろう。思わず彼女から貰った大事な護身刀を取り出して地面へたたきつけていた。僕は何を感じて、何を思って……、そして何を願った!全部、意味などない。僕には何もできない。ひとしきり不満を頭の中でぶちまけた後、地面の護身刀を拾って大事にしまう。僕にとって彼女との数少ない接点の一つであり、僕が無力であることを証明するものだ。そして願いと祈りを込める。もう別に光らなくても構わない。ただ、この祈りが届くのなら。
「お願いします。どうか、彼女に明日を与えてください……」
――人が生きる上で。
明日が当然やってくると思っていることこそ。
何よりも幸せなことなのかもしれない。