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街路樹の片想い  作者: 大神 新
11/18

十章 文化祭前夜 「暖かい時間」

 夏が終わり、二学期が始まった。秋になると必ずこの行事がある。そう「文化祭」だ。文化祭にはトラウマというか後遺症のようなものがあった。どうしても思い出してしまう。自分の「初恋」という恥ずかしい過去を。勘違いしていた数々の行動や言動。その全てが、くだらなくて愚かだ。だから去年の文化祭はずる休みの連続だった。ある程度はクラスの手伝いをしたけれど、高校生になってもあの独特な雰囲気は好きになれない。何日も近くの公園で本を読んで過ごしていたのを思い出す。

 なのに……。今年はそういう気にならなかった。学校にいけば桜さんに逢えるから。何の努力もしなくていい。学校にいく、ただそれだけで好きな人に逢える。それが学校に行くのに十分過ぎる理由になっていた。


 文化祭当日が近づくにつれて、クラスの連中も遅くまで学校に残るようになった。運動部の連中はともかく、文化部の連中は部活を休んででもクラスに協力する。案外、帰宅部ほど早く帰っているものだ。その名の通りなのだが、家に帰ってやることがあるわけでもないだろうに。……などど、僕は偉そうなことを言える立場ではない。何せ去年は僕も大方そんなところだったのだから。

 桜さんはいつもクラスの中心にいるから声もかけられない。けれどたとえ一言も話さなくてもいい。僕の見える場所に彼女がいる。それだけで、嫌っていた文化祭の手伝いを毎日遅くまでしていた。

 ――話したい……。

 声をかけたいけれど、その理由が見つからない。たとえ声をかけたところで、会話は一瞬だろう。それでもいいから、何か理由を考えて……結局諦める。自分の勇気の無さを痛感する。何かを失敗したところで僕には失うものなどない。でも僕は怖いのだ。勇気を出した結果、桜さんの迷惑になるかもしれない。彼女が僕のことを意識していないことは解っている。だから困らせたくない。こうして桜さんのことを見ていられるだけでも、今の僕には十分なのだ。ところが、そんなことを考えていたら桜さんと目が合ってしまった。

 ――まずい!

 反射的に僕は目をそらした。ああ、僕は馬鹿だ……。ますます変な態度になってしまった。どうしようか思案していると、桜さんがツカツカとこっちに向かって歩いてくる。

平和(ひらかず)くん!」

 急に叶った願いに僕は戸惑うばかり。返事をしなきゃいけないのに嬉しいという感情に押し流されて沈黙になってしまった。

「はい、これ!」

 桜さんは黙っている僕に油性マジックを渡すと、にっこりと微笑んだ。

「ちょっと手伝ってくれる?」

 そういって返事も聞かずに僕の手を引いていく。ちょっと待ってほしい。心の準備というものが全くできていないのだ。さっきまで見ているだけで十分とか考えていたのに。桜さんが僕に触れている。僕の手を握っている。それだけで、何かもう変な汗がでそうだ。僕の想像する「嬉しいことリスト」を連続でぶっちぎっていく。桜さんは目的の場所に着くとすっと座って、僕を対面に誘う。あんなに短いスカートをはいているのに、女の子というのは実にうまく腰を下ろすものだ。……そこに目が行ってしまう自分を申し訳なく思う。僕は下書き状態の展示パネルの前に座った。あまりに展開が唐突すぎてこの状況に戸惑っている。「今」は嬉しいはずなのに、その感情すら真っ白だ。仕方なく油性マジックのキャップを戸惑いながらあけると、桜さんはずいっと僕の耳元まで顔を運ぶ。「近すぎ!」と悲鳴を上げそうになる。

 ふっと桜さんの髪の匂いがした。

「目を反らした罰だからね」

 桜さんは僕にしか聞こえない声で小さく言った。まったく、この人は。敢えて言うけど、僕は桜さんのこういうところは好きじゃない。きっと彼女はこういう風に色んな人に接するのだ。僕は彼女にとって「特別」なわけじゃない。けれど……。桜さんは僕にとって「特別」に他ならないのだ。僕が彼女のことを好きじゃなかったら、きっと何も感じなかったのだろう。でも僕は思ってしまった。

 ――嬉しい、と。

 まいったな。こう言わざるを得ない。多分、今の出来事は一生で一番嬉しい事だと言える。小さな事かもしれない。けれど、本当にそう思ってしまった。桜さんの近くにいる男子どもはこんな風には思ってないだろう。そして、思っていないのに毎日僕よりもたくさん話している。羨ましいというか、もったいないというか。いや、違うか。たったこれだけのことで、こんなにも喜ぶ僕が。きっと、どこか狂ってしまったのだろう。

「楽しみだね、文化祭!」

 パネルに色を塗りながら桜さんは楽しそうに話しかけてきた。桜さんにとって、こんな会話なんて普通のことだから自然体もいいところだ。けれど僕にとっては必死だ。思わず手を止めて答える。

「うーん……」

 意識を総動員しているにもかかわらず、うまい言葉が見つからなかった。ここまで協力しておきながら正直、文化祭当日はサボろうと思っていたからだ。

「あれ、楽しみじゃないの?」

 桜さんは手を止めないまま、こっちを見てくれている。

「あんまり、いい思い出ないんだ」

 気の利いた嘘も言えなかったから、正直に答えた。うつむいて答えた僕に、桜さんは相変わらずの笑顔で言う。

「ふーん、じゃ、私と一緒だね!」

「えっ?」

「ずいぶん前に話したけど、覚えている?私、中学生の時ね、文化祭でフラれたの」

「ええっ!?」

 僕は思わず声を上げた。

「そっか、平和君もなんだ。やっぱり私たちってなんか似てるね!」

 桜さんは何故か嬉しそうにそう言ってくれた。

「まあ、ね……」

 僕は自嘲気味に答えた。本当は両想いの桜さんはともかく。僕の失恋はただの勘違いだったのだから、自業自得としか言いようがない。文化祭に対する苦手意識など、逆恨みのようなものだ。

「桜さんは、嫌な思い出なのに楽しみなの?」

 思わず聞いていた。桜さんは僕の顔を見てにっこり笑ってみせた。

「桜 咲夜、17歳の文化祭は今回だけだよ?今度こそは、いい思い出を作らないと!」

 そういって小さくガッツポーズをして見せた。その姿の弱そうなところがまた、可愛い。気持ちが溢れて、零れそうになって僕はあわてて別の話題を探す。

「そういえば……」

 言葉を放った直後、何も考えていなかったことに気がついた。

「髪切った?」

 良く考えれば本当はもっといろいろ聞きたいことがあったのに、些細なことを聞いていた。でも良く考えたら涙の理由とか、少年誌野郎との関係だとか。そんな核心的なことは一生聞けそうもない。

「えっ!?」

 桜さんは何気ない僕の問いかけに、驚きを返した。手を止めて僕を見る。

「あれ、違った……?」

 いつも見ていたからそうなんじゃないかと普通に思っただけだったのだが、こうも驚かれるとは思わなかった。

「そうなの!」

 桜さんが嬉しそうな顔をした。喜んでくれた理由は解らないけど、それは僕にとって、本当に嬉しかった。

「ちょっと前髪切っただけだったのに。なんか嬉しいな」

「そういうものなの?」

 僕はそういう女子の感情なんて、まったくわからない。

「うん、友達だって気が付かなかったのに」

 しまった……。言動には気を付けたほうがいい。僕がいつも桜さんを見ていたことがばれてしまう。内心ハラハラした。

「さすがだなあ。平和君は洞察力があるね!」

 いや違います……。桜さん以外の人だったら何も気がつかないだろう。いくら髪を切ろうが、金髪になろうが……。まあ金髪はさすがに気が付くとしても、僕は基本的に、他人に興味がない。桜さんだから気が付いただけだ。

(とおる)君は絶対、気づいてくれないだろうなぁ……」

 ぼそりとつぶやいたその言葉を僕は聞き逃せなかった。話していられることが嬉しかったはずなのに、胸が痛くなる。この期に及んで痛むなど、贅沢な話だ。それはわかっているのに痛みは止まらない。

「桜さんの好きな人って……」

 僕がその言葉を口にした瞬間、桜さんは顔を真っ赤にした。

「わたし……、口に出してた?」

 驚いたその顔を見て。僕が思ったことは痛む胸をさらに穿った。

 ――やっぱり、この人は可愛い。

「ふふっ……」

 僕は思わず小さく笑った。それは別に桜さんを馬鹿にしたわけじゃない。ただの自嘲だったのだが。

「むー……、私ってわかりやすいでしょ?(とおる)君とは、小さいころから一緒にいたんだけどね。最初は全然そんなじゃなかったんだよ。むしろ、嫌いだったの!」

 正直、この話題はすごく聞きたくない。けれど知りたかった。僕は聞くことで楽になれるような気がした。どうせ苦しむなら、知らないで苦しむより知って苦しむ方を選びたい。だから黙って聞くことにした。まあ、それ以外の選択肢なんて元々ないのだけど。

「小学生の頃はずっと一緒だったけど、中学になって急に冷たくなったの。私も、それでますます嫌になっちゃって。幼馴染が恋人、みたいな話はよくあるでしょ?私には信じられない。(とおる)君は天敵みたいだったもの」

 そういえば聞いたことがある。お話の中で幼馴染っていえば聞こえがいいけど。実際はそうでもないらしい。なんとなくわかる気がする。世に、「妹」に対して妄想する男性は多い。が、実際に妹がいる僕としては、心底馬鹿らしいと思うから。

「私ね、中学二年生の頃に、電車で痴漢にあったことがあるの……。信じられないでしょ?」

 ……世の大人の中には、そこが好きって人もいるわけで。桜さんの主張はわかるけど、十分あり得る現実だとも思う。ただ、僕はその痴漢に対して小心者なりにぶん殴ってやりたい気持ちが芽生えている。だが残念ながら実際その場にいたとして、そんな風に動ける自信はない。小心者で臆病者、それが僕だからだ。

「その時ね、(とおる)君が助けてくれたの。言っとくけど、痴漢ってすごく怖いんだから! 私は怖くて何にもできなかった……」

 そうか、流石だな、少年誌野郎。やはり僕がヤツに勝てる要素はない。

「なんかそれから、気になっちゃって……。ずっと嫌なヤツだったんだけどね。『男の子』ってすごいなった思った。……それから何か意識しちゃって」

 アイツの話をしているときの桜さんは切なそうで悲しそう。なのに一番、綺麗な表情をしている。僕には一生かかっても桜さんのこの顔は引き出せないだろう。少年誌野郎と桜さんの関係は良く分かった。この情報はきっと、僕のこの想いを枯らすのに役立つはず。

「さ、これ終わらないと帰れないよ!」

 そういって桜さんは作業に戻る。僕もあわてて油性マジックを握り直した。


 それから展示パネルが出来上がるまでの間、僕と桜さんはたくさんの話をした。その話は作業しながら話せるほど、どれもくだらなくて大した話ではない。桜さんは映画が好きで友達とよく観に行くらしい。僕の母親がたまたま映画を好きだったおかげで、妙に話が盛り上がった。桜さんは意外とゲーム好きで、RPGをよくやっているけど難しくてすぐに先に進めなくなるらしい。ゲームなら大概のことを知っている僕はいっぱい彼女にアドバイスをしてみせた。僕は音楽をあまり聞かないけど、桜さんが好きな曲をたくさん教えてくれた。その一つ一つを聞いてみるのは今から楽しみだ。カラオケは苦手だけど、もし行く機会があったら、彼女の好きな曲を歌えるようになりたいとさえ思った。

 ありきたりの会話が僕には何よりも嬉しかった。楽しかった。たった今、話しているのに、もっと話したいと思う。一秒でもいい、長くこの時が続いてほしい。もしかしたら安永や佐藤と話すよりも僕はスムーズに話せているかもしれない。今までこんなことなかった。相手が桜さんだからなのかな。それとも僕が桜さんを好きだからなのかな。彼女は退屈していないだろうか。僕は話すのが上手い方ではない。でも不思議と桜さんとの会話に沈黙はなかった。桜さんの表情はくるくると変わって眩しかった。「特別な事」なんてなくてもいい。ただ、こうして「話していられること」が僕にとってかけがえのない時間だと思えた。もし今までの人生で一番よかったことを一つあげろと言われたら、僕は迷わずに今日この日、この瞬間だと答えるだろう。まっとうな恋人がいる人に言わせれば、ありふれた時間かもしれない。でも、僕にとっては何よりも幸せな時間だったのだ。拙いと笑いたければ、笑えばいい。でも、本当なのだ。嬉しいと思う気持ちに布を被せたり、目を反らしたりしなければいい。今、彼女は僕と話をしてくれている。僕は彼女を見ていられる。彼女の瞳には僕が映っている。たとえ桜さんが誰かを想っていようとも。僕にはきっとこれ以上に、嬉しいことなんてない。ただ胸の中が暖かくなった。


「よし、終わり!」

 そんな僕の気持ちをよそに、桜さんはすっと立って油性マジックのキャップを閉めた。ついに、この時がやってきた。やってくるのは分かっていた。だから、我ながらこれ以上ないぐらい一分、一秒を大事に、大切にできたと思う。喜びも、幸せも十分過ぎるほどに味わった気がする。僕は初めて生きてきて、良かったと思った。終わりが来るのはとても悲しいことだけど。終わりが来ることがわかっていたからこそ、僕はこんなにも「今」を大切にすることができたのだろう。こんな感覚は今まで一度も味わったことがない。だけど、僕にはこれ以上、何もできない。もう少し話していたい……。叶わぬ願いだと諦め果てていても、僕はすがりつくように言葉を放っていた。

「他に手伝ってほしいことはある?」

 この言葉の裏に善意なんて欠片もない。あるのは、ただ僕の都合だけだ……。行き過ぎた気持ちを忌嫌いながら、謝りたいぐらいの罪悪感に駆られながらもなお、この暖かさに。もう少しだけ触れていたかった。

「ありがとう、平和(ひらかず)くん。さすが、優しいね!」

 僕の忌まわしい想いに反して、桜さんがこんな風に言ってくれることは予想できた。そして、桜さんは時計を見た。これが終わりの合図だということは百も承知だ。だから、悲しくなった。けれど、今までにもらった暖かい時間に対して最後が「悲しい」だなんて、失礼だ。

「でも、もう遅いし、帰らない?」

 そう言われて引き留める理由なんて僕には何一つ見当たらない。

「そうだね」

 よく見るとクラスの連中も帰り支度をはじめていた。残念だけど仕方がない。僕はこの瞬間を絶対に悲しいなどとは思わない。最高の日として終えて見せる。気持ちとは裏腹に、心はついてこなかった。頭はこんなにはっきりしているのに、どうして心はこんなにも思い通りにならないのだろう。

(せめて、桜さんより後に学校を出よう。)

 そうすればこの情けない心はいくらか納得して家路へ向かってくれるだろう。そう思ってあえてモタモタと帰り支度をする。

「まだ、終わらないの?」

 ひょっこりと。僕の思考回路の中に彼女が割り込む。もちろん、僕に対して声をかけていると気がつくのに少し時間がかかった。何度目だ。よく考えればそんなにおかしい話ではない。なにせ、帰る駅は同じなのだ。そして僕にも彼女にも、学校にいる理由がないのは同じこと。また胸に暖かな雫が落ちる。


 嬉しいという気持ちが後から溢れてきている。完全に展開において行かれている。本当に現実というは厄介だ。悪いことに歯止めがきかないだけならまだしも、いいことも突然にやってきて、ちゃんと理解する暇さえない。

「今、終わるよ!」

 そういって、僕はあわてて筆箱をとる。こういう時に限って僕はいつもダメだ。イマイチだ。本番に弱いというか、肝心なところが抜けているというか、自分が情けなくてがっかりする。

 ――バラバラ。

 筆箱の中身が縦横無尽に転がる。もう恥ずかしくて死にたくなった。

「大丈夫?」

 言って桜さんは中身を拾い始めた。僕の顔は多分、真っ赤だ。物語とかではこういう時に手が触れたり、顔が近づいたりするかもしれない。だがそんなことは一切ない。しょうもない筆箱の中身を地味に拾う作業が続く。はっきり言って、素晴らしく気まずい。

「クスクス……」

 僕はずっとうつむいていたので、桜さんと目を合わすことができずにいた。けど、この時初めて顔を上げた。そこには笑いをこらえている桜さんがいた。その仕草というか、表情というか、ああ、もう何でもいい。ともかく、可愛くて思わず目を奪われてしまった。

「ごめんね、つい」

 そういって、桜さんは両手を合わせる仕草をする。僕はそれ見て急に楽になった。

「そんなに可笑しい?」

 思わず僕も苦笑いしながら桜さんに突っ込む。

「だって、普段の平和君からは考えられなくて」

 こんなことで笑ってくれるのなら。僕はいくらでも筆箱をぶちまけてやる。……多分、そういうことじゃない。だけど桜さんの笑顔を見たらそんなくだらないことを思ってしまった。筆箱の中身を拾い上げて、僕たちは話しながら昇降口で靴を履きかえて、外にでる。待ち構えていたのは夜の闇だった。

「うわっ、暗」

「もう秋だからね~」

 桜さんは寂しそうに言った。そういえば高校になってから、こんなに遅くまで学校にいたのは初めてかもしれない。校舎にちらほらと教室の灯りが見えるが、大半のクラスが下校しているため校庭は真っ暗で地面が見えない。二年近く通っている学校なのに、まったく違う世界に見えた。遠くで虫の声がする。僕はこんな中、桜さんと一緒に帰るというのか。

「ごめんね、つき合わせちゃって」

 そういって、桜さんが僕のすぐ傍に立つ。こんな姿を誰かに見られたら誤解されてしまうのではないだろうか。一瞬そんな考えが過ったが、すぐに桜さんの言葉で霧散した。

「星が綺麗だね!」

 そういった桜さんの表情をこそ見たかったけれど、僕はぐっと我慢して空を見上げた。

「本当だ」

 そういえば夏休み中にずっとずっと考えていた気がする。こうやって桜さんと一緒に空を見られたのなら、僕は幸せだって。そうだ、今。この瞬間、一番の願いが叶ったのだ。僕の人生で本気で願っていたことが叶ったのは、これが初めてかもしれない。だからどう感じていいかわからなくて、ただ涙が出そうになった。今日という日の嬉しさは、僕の小さな尺度では測れそうもない。この後に話した会話は生涯忘れないだろう。教室から引き続き他愛もない話だ。桜さんは梅のおにぎりが苦手で、たらこのおにぎりが好き。アイスはチョコレートよりもストロベリーが好き。紅茶は選べるならレモンティー。旅行が好きで、その中でも一番好きなのは計画を立てる時。……それが、桜さんと一緒に帰った時に話したこと。多分、桜さんは覚えてもいないだろう。でも僕にとっては大切な、本当に大切な想い出だ。


「家まで送っていこうか?」

 駅に着いて。とりあえず言うだけ言ってみた。断られるのは分かっている。けど、もう少し桜さんと一緒にいたかった。あと何度、桜さんと話せるだろうか。きっと高校を卒業したら会えないだろう。下手をしたらクラスが変わった時点でもう会えないかもしれない。そして、僕がこの気持ちを明かしたらきっともう二度と話せない。いずれにせよ必ず終わりが来ると解っている。だから、僕は逢えなくなった時の分まで、この心に桜さんを焼き付けたいと思った。

「大丈夫だよ、ありがとう」

 私欲であって善意ではないその言葉に、桜さんはそう言ってくれた。

「そっか。じゃあ、――またね」

 僕は「さよなら」という言葉は好きじゃない。だから、願いをかけてそう言った。

「うん、またね!」

 桜さんはそういって笑ってくれた。そして手を振って背中を向ける。自分でも情けないと思うけどその姿が暗闇に消えて見えなくなるまで、僕は彼女を見ていた。暖かい光がこの胸の中にある。それは決して捕まえることのできない儚い光だ。だけど、この光が僕を変えてくれる。たとえ届かないとしても、僕はこの手を伸ばしたいと思った。


 ――他愛のない時間が過ぎた。

   ただ、それだけで。この世界は色を持った。

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