55th 墜ちた獣と人でなし
屋上の煙が、ゆっくりと晴れていく。その中で影は膝からがくりと崩れ落ちた。
(やはり、身体の構成にかなりの不備が……)
思う間にも、また腕や足に裂傷が走る。
(ぐっ……これは、片銀?)
代償のダメージが影を蝕む。だが、影を蝕むのはそれだけではなかった。
(不完全さ……ですね)
方鐘の『愚者の贋作』の作成は、影からしてみれば不完全この上なかった。
(対価としてのカロリーを払わないだけで、ここまで弱るとは……)
厳密にはカロリーの消費が極端に減少しているだけなのだが、根本的には同じだ。
(やはりこの能力、完全に扱うには足りないのですね)
等価交換。方鐘という存在がたどり着いた、生きるためのルール。だがそれは、片銀という『大罪』を間において成立するものだ。元からかなり薄い方鐘の『自分』と『その他』の境界を片銀が破壊し、それを方鐘が作り直す。それは、方鐘と片銀の二人が作る力。
それが、自分には足らないのだ。『原形』が自らの『起源能力』を解放するには、対になるもう一つの『原形』が必要。それが居ない今、影は限り無く不完全なのだ。
(足りないものは鏡の向こう……)
無意識に方鐘が『影』から力を借りる時に呟く、もう一つの能力鍵。
(彼にとっての鏡合わせが片銀とするならば……)
私の『鏡合わせ』とは何、いや、誰なのだろうか。
晴れない疑問と裏腹に、煙は全て消え去った。
影はゆっくりと立ち上がる。そして、煙の晴れた屋上を眺める。
望は、血塗れになった希美を抱き抱えていた。
(盾にでもなったのでしょうか?)
無駄なことを、と影は思う。望は二言三言希美と話したかと思うと、どうやら事切れたらしい彼女を床の上に置いた。
「第二削除対象、排除完了しました。ご安心ください、あなたもすぐにそちらへ御送りいたしますので」
「……お前は、本当に人間か?」
唐突に低い声で問われた影は、思うままを返す。
「身体と精神と知能に問題は在りません。分類上間違いなく私は人間です」
多少理性の配分が過多な仕様ですが。
そう付け足すと、望が感情をあらわにして言った。
「ならば私は、どこまでも人で在ろう! 本能と感情のまま希美のぶんまで生きてやろう! そのためなら、なんだってしてやる!」
叫ぶ。あまりにも苛烈な世界への意思提示。
そして彼は、『墜ちた』。
「グウオオオッ!!」
雰囲気が変わる。身を削るような、今にも食らいつきそうな気配。その咆哮が、意思を持って響いた。生きる為に食う。食うために生きる。その絶叫が、空気を震動させた。
(……完全に、墜ちましたね。これはもう殺すしか無いでしょうか)
その中で、影はあくまで冷静だった。
「ではまず私を殺さなければいけませんね。……やれるなら、ですが」
足元に広がる銃器の海を再起動させる。
「『暴食』の御手並み拝見といきましょう」
撃った。
「ガアヴッ!」
弾丸が、『暴食』の叫びが終わると共に消失する。
喰われた、と影は判断した。
(先程と合わせて、両手と口で三つのあぎとが在るのでしょうか。……地獄の番犬を想起しますね)
本質は同じでしょうか、とも影は思う。喰う、という性質が同じならば暴食も番犬も変わらない。
「犬なら首輪をつければいいのですが。つけられませんね、これは」
飼い慣らす気はさらさらないが。そう思いながら影は床に手を置く。
「では、これは食べられますか?」
作ったのは、長大な鉄杭。大木ほどもあるそれを影は勢いよく投げ付けた。
「ガルッ!」
しかし、『暴食』はそれも食いちぎる。後ろ側数センチを残して鉄杭は消滅した。
(なるほど。あぎとの奥行きは2メートル程度ですね。太さは60センチは可能、と……)
ならば、と思考に区切りをつけて影は空中から直接鉄杭を作り出す。だが、今度の長さは約8メートル程度だった。
「喉につっかえるか貫通するのか、気になりますね……では!」
投げる。『暴食』はそれを食らうが足りず、残った部分と正面衝突した。
「ガア!」
だが、踏み堪える。普通なら屋上から落とされかねない一撃を、『暴食』は耐え切った。
(……身体能力を視野に入れるのを忘れていました。なるほど、私たちと同程度であるようですね)
影はいくつもの理解と納得を積み重ねる。それが影の戦い方なのだ。
だが、『暴食』はその戦い方に付き合う気はないらしい。野生じみた脚力でこちらに飛び掛かってくる。
(遠距離では防戦一方になると即断しましたか。理性は在るようで)
しかしその中からも影は情報を拾う。『暴食』の攻撃から逃れるため思考は中断せざるを得なかったが。
右側に陽炎のあぎとを見て、身体を左に倒す。だが左にもあぎとが展開していたため、左足を隙間に挟んでバックステップ。あぎとの奥行きは先程把握しているため、カウンターを狙って当たらないギリギリの位置を取る。
(そこです)
無言のまま影は能力を行使。作成したのは小さな瓶。液体で満たされているそれを、あぎとの向こうに投げる。
(ニトログリセリン。心臓病の薬ですが、爆薬でもあります)
同時に、爆発。ニトログリセリンの爆発は指向性がある。当たった場所からしか爆発は起こらないからだ。
「ガウッ!?」
突然の爆発に『暴食』がためらいを見せた。それを好機と見て、影は『暴食』に殴りかかる。
ただし、その拳にはニトログリセリンが塗りつけてあったが。
しかし影は全く躊躇なく『暴食』の顔面に拳を入れた。
「ゴアッ!」
「ふむ……」
手が反動で爆発するが、それを引く動作にして影が連打を放つ。次々と爆発が互いを襲うが、影は自動で身体を修復するのに対して、『暴食』は殴られるままだ。
「ガ、グウ、ゴア、ガウ、ギアッ!」
「身体の強度は通常より少し上ですか。この程度なら問題在りませんね」
連打。さらに連打。だがそれは、影の腕が食いちぎられることによって中断する。
「しまっ……!」
影が初めて焦った声を出した。『暴食』が補色者の笑みを浮かべていたからだ。通常、殴るなら上体は前に突き出る。そのまま支えとなる爆発を生む両腕を失ったらどうなるか。
当然、相手のあぎとの前に首を差し出す格好になり。
バツン、とチャンネルの変わるような音がして、影の視界が暗転した。