episode.96 薄暗くても楽しんで
以降、ミセはちょくちょく、エトーリアの屋敷へやって来るようになった。
デスタンの世話を任されていた使用人は、ミセが来ている間だけはその職務から解放されることとなったため、それは良かったと言えるかもしれない。
それに、デスタンにとっても良いことだろう。
動くことはできないにしても、意識はあるデスタンだから、話し相手くらいはいる方が良いに決まっている。
それからも、私は訓練に勤しんだ。
「せいっ!」
「え……」
「とりゃ! はいっ!」
「ちょっ……えーっ!?」
その日も、私は、木製の剣でリョウカと模擬試合を行っていた。
「ま、また負けたっ……」
「えっへん! やっぱりまだあたしの方が強いねっ」
リョウカの強さは圧倒的だ。
訓練の成果もあり、私も、徐々に慣れてきてはいると思う。最初の頃に比べれば、反応速度は上がったし、連戦であっても動けなくなることはなくなってきたと感じる。
だがそれでも、リョウカには敵わない。
稀に勝てることはあっても、連続で勝利を収めるというのはまだ難しい。
「けど、エアリもやるね! あたしが相手で十戦中三回も勝つなんて、なかなか!」
リョウカは明るい表情で褒めてくれた。
「ありがとう」
「うんうん!」
「けど……まだまだよね。せめて半分くらいは勝てなくちゃ、まともには戦えないわ……」
恐らくリョウカは手加減してくれているはずだ。本気のリョウカが相手なら、きっと、私はまだ敵わない。
戦場では誰も手加減などしてくれない。
だから、本気のリョウカにも一矢報いることができるくらいにならなければ。
そんなことを考えていた私に、リョウカは軽やかな口調で声をかけてくる。
「焦らなくて大丈夫だよっ」
あぁ、なんて善い人。
心からそう思った。
「腕は確実に上がってるから!」
◆
リゴール処刑目前まで進んでいたにもかかわらず逃がしてしまったあの日以降、ブラックスターには何とも言えない空気が漂っていた。
また、グラネイトに続いてウェスタまでもがブラックスター陣営から離反したため、リゴールを捉えるための人手が急激に失われてしまい。ブラックスターは人材不足に悩んでいた。
そんな状況を打開すべくブラックスター王が考えたのは、優秀な人材を発見するためのイベントだ。
とはいえ、皆がそれに賛成していたわけではない。
王直属軍でさえも、ブラックスター王の考えに賛同する一派と、現在の状態を無理に変える必要はないと考える一派とに別れてしまっていた。
賛同する一派は、主に、ブラックスター王を盲信する者たちで構成されている。また、ブラックスターが築かれるより前からブラックスター王と交流があった家系の者が多い。それに対し、変える必要はないと考えている一派には、ブラックスター王に仕え始めてまだそれほど年が経っていない家の者が多かった。
世が徐々に乱れ始める中。
トランはというと、牢へ入れられていた。
既に失敗を積み重ねていたこと。また、エアリを逃がし、リゴールを奪還されたこと。相次ぐミスを怒ったブラックスター王の命により、トランは囚われることとなってしまったのだ。
トランが囚われている部屋は、カビの匂いが漂う狭い部屋。古ぼけたテーブルと椅子が一つずつ置かれているだけの、殺風景な部屋だ。穏やかに眠るためのベッドさえ用意されていない。
トランが、外からの光の入らない薄暗い部屋の中でぼんやりしていると、鋼鉄の扉が開いた。
「入るぞ! 昼食だ!」
銀色の器を三つ乗せたお盆を持った男が部屋の中へと入ってくるのを、椅子に座ったトランは、やる気のなさそうな瞳でじっと見つめている。
男は不機嫌そうな顔をしながら、お盆をテーブルに置く。
バン、と強い音の鳴る、雑な置き方だった。
トランは男が持ってきたお盆へ視線を注ぎ、顔をしかめる。
「今日も美味しくなさそうだなぁ」
一番深さのある器には、ほんの僅かに茶色がかった透明な液体。浅い楕円の器には、乾燥したパンが二個。そして、三つの器のうち最も小さな器には、橙色のジャム。
「さっさと食え」
「ふぅん。なかなか偉そうな口を聞くんだねー」
トランの挑発的な言い方に、男はピクリと眉を動かす。
「……何だと?」
男は岩のような顔面に不快の色を滲ませる。が、トランは引かない。それどころか、煽るような笑みを浮かべている。
「一介の兵が勘違いしない方がいいよ」
「き、貴様ッ……!」
怒りを堪えきれなくなった男は、トランが座っている椅子を蹴った。
椅子は飛んでいく。
が、トランは一瞬早く椅子から離れていた。
「まったくもう、乱暴だなぁ」
「なっ……」
トランの反応の早さに、男は目を見開く。
「びっくりしたーって顔だね」
「この部屋では術は使えぬはず……今、一体何をした!」
「えー? 何もしてないよ」
「嘘をつくな!」
歯茎を剥き出しにして叫ぶ男を目にしたトランは、呆れに満ちた顔をする。
「ついてないよ、嘘なんて」
「そんなわけがない! 何もせずそんな反応速度……あり得ん!」
喚き散らす男の顔には、トランへの畏れが滲んでいた。
「ま、一介の兵ならそうなのかもしれないねー。けど残念ながら、ボクは一介の兵じゃないんだ。だからボクには、君の常識なんて通用しないんだよー」
トランは敢えて笑う。
雲一つない空のように晴れやかな笑みを浮かべる。
だが、その笑みが不気味さをさらに高めていて。
最初は威勢よく叫んでいた男だったが、時が経つにつれ、少しずつ威勢のよさを失っていく。畏れの色が濃くなっていっている。
「……む、無能で囚われているくせに!」
「確かにボクは失敗続きだったよ。けど、君より能力が高いことは確かだねー」
言いながら、トランは蹴飛ばされた椅子を元の位置へ戻す。
「ちょっ……調子に乗るな!」
「乗ってないよ。ボクは事実しか言っていない」
トランがニヤリと笑うのを見て、男の顔面が石のように強張る。
「じゃ、ボクは昼を食べるよ。そこにいられたら焦るから、外で待っててもらっていいかなぁ」
怪しげな表情を浮かべ、男の動揺ぶりを密かに楽しんでいるトランだった。