episode.82 すべてを捨てても構わない
ウェスタに導かれデスタンがたどり着いたのは、静かな雰囲気の部屋だった。
赤絨毯の敷かれた床にベージュ系ストライプの壁という、飾り気のないシンプルな室内。そこに置かれているのは、白い一人用ベッドが一台と、腰の高さ程度のタンスと、木の枠の姿見。
「ここは?」
瞬間移動し、見たことのない場所へ到着したデスタンは、部屋の中央付近に立ったまま問う。
「……部屋」
デスタンの問いに、ウェスタはそう答えた。
「ウェスタの部屋、ということか」
「そう……自室」
いつもよりほんの少し高い声を発しながら、ウェスタは数歩移動する。そして、ベッドにそっと腰掛けた。
「……兄さんは今日から、ここで暮らして」
「なに?」
ベッドに腰掛けたウェスタが放った言葉を、デスタンは聞き逃さなかった。
「兄さんはここで……帰りを待っていてくれればいい」
「待て、ウェスタ。何を言っている」
兄との再会がそんなに嬉しいのか、ウェスタは、いつもより穏やかな顔をしている。また、日頃は氷剣のような視線を放っている瞳も、今は決して鋭さはなく、儚さこそあるものの優しげな雰囲気だ。
一方、デスタンはというと、穏やかな表情を浮かべるウェスタを目にして少々戸惑っているようだった。
だが、それも無理はないかもしれない。
実の兄妹であるとはいえ、敵同士になっていたのだから。
「……これからは二人で暮らす。もう一度、幸せを取り戻す」
夢みる乙女のように語るウェスタに、デスタンは冷ややかな声を突きつける。
「無理だ。それは」
「……なぜ」
「私たちは、もはや戻れない」
デスタンは静かに足を動かし、ウェスタのすぐ隣に腰を下ろす。
「だが」
甘い空気が部屋を満たす。
隣り合ってベッドに腰掛ける二人は、まるで恋人のよう。
「……だが、何?」
ウェスタは肌が触れるほど近くに迫ったデスタンを見上げる。彼女は面を上げ、デスタンの方は面を下げ。二つの顔は、信じられないほどに近づく。
誰かがこの場面を目にしたならば、二人が恋人同士であると勘違いしたかもしれない。
それほどに、二者の距離は近かった。
幼い頃共に長い時間を過ごした二人にしてみれば、接近することでの恥じらいなどそれほどない。
無論、世のすべての兄妹がこのようなことを厭わないということはないだろうが。
ただ、この二人においては、こういったことは普通のことであった。敵同士となって以後は親しくすることはなくなっていたが、かつては毎晩、こうして話をしていたのである。
デスタンはウェスタの問いに答えなかった。
しかし、彼女の片手をそっと握る。
——そして、突如投げた。
「……っ!?」
デスタンは、何の躊躇いもなく、握っていた手を軸にウェスタを投げたのだ。結果、彼女はもちろんベッドから転落。床に倒れ込んでなお呆然としているウェスタを、デスタンは、ものの数秒で完全に押さえ込んだ。
「……兄さん」
「抵抗しないことを推奨する」
「何を……するつもり」
両腕を掴み、馬乗りになる。
それも、実の妹に。
普通なら躊躇ってしまうかもしれないようなことだ。
だが、デスタンの胸の内には、躊躇いなど欠片も存在していなかった。
彼が見据えているのは、ウェスタではなく、己の為すべきこと。
ウェスタはそのために利用するものでしかないのかもしれない。
「王子を誘拐したのは、ブラックスターか」
「……知らない」
「答えろ。答えないというのなら、容赦はしない」
「知らない……それが答え」
刹那、デスタンは再び包丁を取り出した。
彼はそれを片手で握り、床に押さえ込んでいるウェスタの首元へ突きつける。
「それは答えではない!」
ウェスタは、自身を躊躇なく押さえ込む兄を見上げ、動揺したように瞳を揺らしている。
けれど、そこに滲んでいるのは恐怖ではなく。
どちらかというと、驚きに近い色だった。
「……どうして。兄さんはどうして……あの王子のために、こんなことまで……」
彼女は刃物には怯えていない様子だった。
それよりも、デスタンが鋭い物言いをしたことへの衝撃の方が大きかったようだ。
「こんなことは……おかしい。兄さんはやはり……既に重度の洗脳を……?」
「洗脳はない。ただ、私は助けに行かねばならない。それができないなら、王子の護衛として在り続けることはできないからだ」
包丁の刃が、ウェスタの首へ微かに食い込む。刃が入った部分から、一滴、赤いものが流れ出す。
一筋のそれが、不気味に煌めく包丁の刃部分を伝い床に落ちた時。
ウェスタは覚悟を決めたように目を細めた。
「……兄さん」
沈黙を破る、ウェスタの小声。
「もし王子を助けられたら……そうすれば……また二人で生きてくれる……?」
それを聞いたデスタンは、彼女の唐突な発言に戸惑ったようで、一瞬眉をひそめた。だが、不利な状況にありながらも懸命に見上げてきている彼女の赤い瞳を目にし、何かを察したようで。十数秒ほど考えてから、彼は答えた。
「兄と妹に戻ることは、できるかもしれない」
それはとても曖昧な答え。
兄と妹に戻ることはできても二人で生きることはできないのか、と言いたくなるような。
だが、それでもウェスタは嬉しそうだった。
「……そう。それなら……望みは叶う……」
「どういう意味だ」
「我が望み、叶うなら……すべてを捨てても構わない……」
ウェスタの瞳は、これまでとは違う新しい色を湛えている。
「兄さんのために……できることを」
彼女は「待っていて」とだけ言い残し、デスタンを自室に置いて、部屋から出ていった。
丁寧に、鍵もかけて。
彼女が部屋から出ていくや否や、デスタンは足を動かし、扉の方へと進んだ。ドアノブを掴み、それを捻ってみるが、まったく動かない。もっとも、鍵がかかっているのだから当然と言えば当然なのだが。
その後、彼はあっさりとベッドの方へ戻った。
鍵がしっかりかかっていることが分かって脱出を諦めたのか。それとも別の理由があったのか。
そこのところは誰にも分からない。
ただ、デスタンはそれ以上脱走しようとしているような動きはとらなかった。
ベッドに腰掛けたまま、ウェスタの帰りをじっと待っていた。
それから一時間ほどが経過して、ウェスタは部屋へ戻ってきた。
彼女は入室するや否や速やかに鍵をかけ、デスタンがベッドに腰掛けているのを確認すると、静かに告げる。
「……王子はいる」
「この城にか」
「城の近くの牢に……入っているらしい」
少し空け、ウェスタは続ける。
「ただ……処刑は近い」
「処刑!?」
デスタンは驚き、凄まじい勢いで立ち上がった。
「……そう。処刑は……明日中」