episode.75 休息の日
「はっ……」
鎌を持った女性の前からリゴールが走り去った、次の瞬間、気づけば私はベッドの上にいた。
エトーリアの屋敷の中の、自室だ。
そこそこ硬い枕から頭を浮かせ、上半身を起こす。
腕や体に触れる敷き布団や掛け布団は柔らかく、妙な夢のせいで強張った心を優しくほぐしてくれた。
「……夢、か」
いつの間にかあの場所にいた時、私は、そこが夢の中であると気づいた。にもかかわらず、時が経つにつれ、そのことを忘れてしまっていた。それは多分、眺めていたのが恐ろしいものだったからだろう。
もう一度寝よう。
そう思い、すぐに再び横になる。
——だが、しばらくじっとしていても眠れなくて。
これはしばらく眠れそうにない、と悟った私は、一回大きく背伸びをしてベッドから起き上がった。
結局、再度眠れないまま朝を迎えてしまう。
「おはようございます、エアリお嬢様。良い朝を迎えられま……お嬢様ッ!?」
朝、様子を見に部屋へ訪ねてきてくれたバッサは、がっつり寝不足の私を目にして、かなり驚いた顔になる。
「おはよー……」
あの後も、一時間か二時間に一度くらいはベッドに横たわってみたのだが、結局、まったく寝られなかった。
寝ようとしても寝られないのに、元気というわけでもない。
そこが厄介なところだ。
「一体何があったのですか!! エアリお嬢様!?」
「二回目寝られなくて……」
「えぇっ!?」
それから、私は、バッサに事情を説明した。
不気味かつ恐ろしい夢をみたこと。そして、目を覚ましたはいいものの、寝られなくなってしまったということを。
「なるほど。つまり、寝不足ということですね」
「そうなの……」
眉間には鈍痛。
視界は霞み、平衡感覚がおかしい。
なのにかなり覚醒してしまっていて、体を横にした程度では眠れそうにない。
「では、もうしばらく横になっていられてはいかがでしょう?」
「え」
「皆様には、こちらから事情を説明しておきますので」
バッサはにっこり笑って、優しい言葉をかけてくれた。
「え、そんな……構わないの?」
目を擦りながら問う。
するとバッサは、笑顔のまま、迷いなく答えてくれる。
「はい。お任せ下さい」
「ありがとう」
「いいえ。それでは、また、食事をお持ちしますからね」
「助かるわ」
バッサが部屋から出ていった後、私は再びベッドへ戻る。掛け布団を捲り、体を横たえてから、乱れていてもなお柔らかな掛け布団を体に被せた。
天井を見上げ、ぼんやりと思う。
あぁ、やはりまだ眠れそうにない——。
「エアリ!」
「ん……」
「大丈夫ですか!?」
何やら騒がしく、意識が戻った。
どうやら私は、眠ることができていたようだ。意識が戻った、という感覚があるのが、その証拠と言えるだろう。
まだ重い瞼をゆっくりと開けると、リゴールのものと思われる鮮やかな黄色の髪が視界に入った。
「リゴール……」
視界に入った彼の名を、小さく発する。
すると、視界の中にある彼の表情が柔らかくなった。
「エアリ! 良かった……!」
リゴールはそう言って、まだあどけなさの残る顔に、安堵の色を滲ませる。
「え?」
戸惑う私に、彼は自ら事情を説明し始める。
「眠れないと伺っていたにもかかわらず、訪ねてみれば眠っていらっしゃったので……もしかして気絶では、と思い、少々取り乱してしまいました」
リゴールは、肩をすくめ、申し訳なさそうな顔をしていた。
自己主張が激しくなさそうなところは好感を持てる。が、個人的には、ここまで申し訳なさそうな顔をしてほしいとは思わない。
「そういうことだったのね……」
「驚かせてしまい、申し訳ありません」
「気にしないでちょうだい」
いきなり名を呼ばれたことに驚いたのは事実だが、だからといって謝罪を求めようとは思わない。心配しただけのリゴールに罪はないのだから。
「そういえば。今日の訓練は中止だそうですよ」
「えっ。そうなの!?」
リゴールからの情報に、私は思わず驚きの声をあげてしまう。
私は、リョウカはそう易々と訓練中止を認めるような人間ではないと、そう思っていた。それゆえ、寝不足程度で訓練を休ませてもらえる可能性など、考えてもみなかった。大怪我でも重病でもないにもかかわらず訓練をなしにしてもらえるとは、かなり驚きだ。
「リョウカといいましたか……あの女性の方が、中止と言っておられましたよ」
優しく微笑むリゴールに向けて、私は言い放つ。
「このくらいで休ませてもらえるなんて、驚きだわ」
するとリゴールは、首を軽く傾げながら尋ねてくる。
「そんなにも厳しいのですか?」
「えぇ。結構厳しいわ」
まぁ、私が弛んでいるだけなのかもしれないけれど……。
戦いを得意とする者というのは、皆、日々苦労しながら生きている。苦しいことを乗り越え、己に厳しく接してこそ、強さを手に入れられる——そういう仕組みなのだろう。
リョウカもそちら側の人間。
山にも谷にも負けず挫けず鍛えてきたからこそ、あれだけの強さを手にできているのだ。
「ああいう経験は初めてだから、不思議な感じがするわ」
直後、リゴールの表情が微かに曇った。
「エアリはわたくしのせいで大変な思いを……」
「待って、リゴール。貴方のせいじゃないわ。訓練は私が望んだことだもの」
剣の腕を少しでも磨きたいと思ったのは、他の誰でもない、私自身だ。だから、リゴールには責任を感じてほしくない。
だが、思いのすべてをきちんと伝えるのは至難の業で。
結局伝えきることはできず、リゴールには暗い顔をさせてしまった。
「いえ。わたくしにも責任があります」
「そんなことはないわ、リゴール」
「いえ、あるのです。出会ってしまったことは仕方ないにしても、貴女から離れるタイミングは何度もありました」
それはそうかもしれない。
でも、どうか、そんなことを言わないでほしい。
「けれどわたくしは、思いきれず、貴女に甘える道ばかりを選んできてしまいました。それは……わたくしの罪です」
リゴールと出会ったことで受けた被害はある。けれど、彼といることで得た幸福だって、たくさんある。
だから私は、彼と共に過ごした日々を後悔なんてしていない。
分かってほしいのだ、それを。
「ちょっと待って。リゴールは、どうしてそんな風にばかり言うの。私は貴方を責めてはいないわ。それなのになぜ、貴方は自分を責め続けるの」
彼のことは嫌いじゃない。
けれど、すべてを理解できるかと問われれば、頷けないかもしれない。
「そんな無意味なことをする意味が分からないわ。どうして——」
言いかけた、その時。
私もリゴールも触れていないはずの扉が、軋むような高い音を鳴らしながら、ゆっくりと開いた。




