episode.32 母と娘、兄と妹
その時ようやく、静寂が訪れた。
今までは聞こえていなかった風の音が、唐突に耳に入ってくる。
「……兄さん」
「私はもう戻らない。説得しようとしても無駄だ」
「どうして……故郷を捨て敵の王子に仕えるなんて信じられない……」
首を握られているという明らかな不利な状況であっても、ウェスタはあまり危機感を抱いていないようで、彼女は会話を続けている。
「……裏切り者」
そう呟き、ウェスタは、首元のデスタンの手に自分の手を当てる。
直後、彼女の手から赤い炎が溢れる。
すると、デスタンはすぐに、彼女の首から手を離した。
驚いてなのか、熱さを感じてなのか、そこは不明。
だが、ウェスタが炎を放ったことにすぐに気づいたようだった。
ウェスタとデスタンの間の距離が広がる。
「許せない……許さない、兄さん……」
「何も無理に許す必要はない。お前には、私を許さない資格がある」
私は少し離れたところで、エトーリアを馬車に乗せようとしながら、ウェスタとデスタンが言葉を交わしているのを密かに聞いていた。
「帰る気になってくれないなら……力づくでも、連れて帰る……!」
「こんなところで殺り合う気か、ウェスタ」
数秒後、帯状の炎が宙を飛ぶのが見えて。
ウェスタがデスタンに攻撃を仕掛けたのだと、すぐに分かった。
幸い、彼女の意識は完全にデスタンに向いている。さすがに、今の状態では、私の方にまで攻撃してきたりはできないだろう。
つまり、今は安全と言える。
そう思ったから、私は素早く、エトーリアを馬車に乗せた。
「エアリ……よく分からないけれど……逃げるの……?」
脱力し重くなったエトーリアの体を馬車に乗せることに成功したちょうどその時、意識を取り戻した彼女が口を開いた。
「母さんは馬車で先にここから離れて。私はもう少しここに残るわ」
問いにそう答えると、エトーリアは馬車内の椅子に横たわったまま、首を左右に動かす。懸命に動かしていた。
「駄目……そんなの駄目よ……!」
「大丈夫よ、母さん。私は一人じゃないもの」
「エアリまで失ったら、私……」
エトーリアは懸命に瞼を開け、瞳で訴えてくる。
悲しげな目で見つめるのは止めてほしい。そんな瞳をされたら「一緒に行くわ」としか答えられなくなってしまう。そう答えなければ、胸の内の善良な部分が痛んで仕方がない。
「……心配してくれてありがとう、母さん。でも、私、彼を置いて逃げることはできないわ」
私は正直に返した。
上手く飾ることなんてできないと思ったから。
「だから残らなくちゃ。見守らなくちゃならないわ」
「そう……ならエアリ、わたしもここに残る……」
「分かったわ、母さん。じゃあここにいて」
本当は先に去ってほしかったのだが、エトーリアの優しい心を乱雑に扱うことはできない。だから私はそう返したのだ。
「少しだけ様子を見てくるわね」
そう言って、私は馬車から離れた。
——だが、馬車を降り様子を確認しようとした時、ウェスタの姿はもうなくて。
そこには、デスタン一人が立っているだけだった。
私は、哀愁漂うその背中に向けて、彼の名を放つ。
「デスタンさん!」
すると、彼は振り返った。
髪に隠されていない片方、一つだけの黄色い瞳が、私をじっと捉える。
私が「大丈夫!?」と問うと、彼は控えめに「はい」と答えた。さらにその後、数秒空けてから、はぁ、と大袈裟な溜め息をつく。
「……しかし、逃げられてしまいました」
悔しげに漏らすデスタンに、私は速やかに歩み寄る。
「怪我はない?」
「はい」
デスタンは頷いたが、その顔からは、感情なんてものは欠片も感じられなかった。ただ言葉を発しているだけ、という雰囲気である。
「貴女は怪我がありますね」
「え」
「その右肩、炎を食らったのでしょう?」
彼に言われ、思い出した。一度ウェスタの炎の魔法攻撃を受けてしまった、ということを。
「えぇ……そうだったわ。忘れていたけれど。デスタンさんって、意外と鋭いのね」
「服を見れば分かります」
「え、そうなの?」
言ってから、自分の右肩へ視線を注ぐ。すると、ワンピースの黒い袖が、一部分だけ焦げてしまっているのが見えた。
……これは分かりやすい。
「確かに、これはさすがにバレるわよねー……」
「はい」
日頃も結構心が読めないデスタンだが、今日の彼は特に心が見えない。
だとしても、これだけは言っておかなくては。
「……あの、デスタンさん」
人を寄せ付けない冷ややかな空気をまとっているデスタンにいきなり話しかけるというのは、勇気が要る。けれど、感謝の気持ちはきちんと伝えておきたくて。
「今日は危ないところを助けてくれて、本当にありがとう」
恩知らずな女なんて、もう言わせない!
「貴方が来てくれたおかげで、私も母も助かったわ」
私は真剣に礼を述べた。
しかしデスタンは適当な返し方をしてくる。
「はぁ」
「……ちょ、ちょっと! その言い方は何なの!」
「それはこちらのセリフです」
うぐっ……。
よく分からないけれど、何だか妙に悔しい。
「で、貴女はどちらへ?」
「え」
「高台の家へはもう戻られないのですか?」
デスタンの問いに、私は首を左右に振る。
「いいえ。一度母の家へ行くだけよ。用が済めば、またあの家へ戻るわ」
そう告げると、デスタンは吐き捨てるように発する。
「……迎えが来たのなら、さっさと去ればいいものを」
酷いわね! 口が悪いにもほどがあるわよ!
「しかし、一つ判明したのは良かったです」
「何なの?」
「倒れていたあの女は、貴女の母親だったのでしょう」
私はそっと頷く。
「……それが判明したところだけは、良かったです」
「だけは、って何よ! いちいち嫌みね!」
「私は不快な女にも親切にできるほど完成した男ではありません」
よくそんなことをきっぱりと言いきれるわね。
そう言ってやりたい気分だった。
「では、私はお先に失礼します」
「また戻るということは、リゴールには伝えてあるわ。だから、そこは心配しなくていいわよ」
「承知しました」
こうして、デスタンとは別れた。
そして私は再び馬車に乗り込み、エトーリアと共に、彼女が住んでいるという家へ向かう。あんなことがあったにもかかわらず御者が逃げ出さず待ってくれていたのは、運が良かったと思う。




