episode.1 一夜きりの宿はいかが?
あれからどのくらい走っただろうか。やがて、背後から聞こえてきていた爆発音が聞こえなくなった。
「追っ手は諦めたようです!」
「ホント!?」
少年がそう言ったのを聞き、足を止める。それから、恐る恐る振り返ってみた。が、そこにいたのは少年だけ。敵らしき者の姿はなかった。
ほっとして胸を撫で下ろす。
「良かったぁ……」
呼吸は荒れるわ、胸が痛いわで、散々だ。
ただ、逃げ切ることができたのは良かったと思う。
薄暗い森の中で死ぬ、なんて寂しい最期だけは、絶対にごめんだ。
「あの……エアリ」
少年が声をかけてきた。
……しかし、どうしていきなり呼び捨てなのか。
「なぜ、助けて下さったのですか?」
少年は、少年らしからぬ怪訝な顔で、そんなことを尋ねてくる。その青い双眸は、私の顔をじっと捉えている。
「貴女には、わたくしを助ける義務などなかったはずです。なのになぜ?」
「理由なんて、よく分からないわ」
「まさか、理由もなくわたくしを助けて下さったのですか?」
彼は奇妙な生き物を見るような目で私を見てくる。
彼には理解できないのかもしれないが、助けたことに理由なんてない。彼を引っ張ってきたのは、緊急時だったから自然と体が動いただけ。それ以下でもそれ以上でもないのだ。
「そうよ。……悪い?」
どんな反応が返ってくるだろう、と思いつつ、横目で少年を見る。
そして驚いた。
彼の青い双眸が、輝いていたから。
「貴女は天使様か何かですか!?」
「え」
「天使様ですよね!?」
凄まじい勢いで迫ってくる。
何なんだ、一体。
「ち、違うわよ!」
曖昧な態度を取って、壮大な誤解に発展しては大惨事だ。だから、はっきり否定しておいた。早めに否定しておく方が良いだろう、と思って。
しかし、少年の勢いは止まらない。
「貴女は天使様です! 間違いありません!」
「いや、違……」
「ですよね!?」
あまりにも執拗に言われたものだから、ついに爆発してしまう。
「どっ……どうしてそうなるのー!」
叫んでから、やってしまった、と焦る。
ついさっき出会ったばかりの相手に向かって今のような高圧的な言い方をするなんて。今日の私はどうかしている。
「あ……ごめんなさい、大きな声を出して」
「い、いえ。こちらこそ、一方的に言ってばかりで申し訳ありません」
お互い正気に戻ったようだ。
夜空の下、非常に気まずい空気に包まれる。
私と彼は互いの目を見合う。お互いの顔色を窺うように。私がそうであるように、彼も、悪意があって暴走したわけではないだけに気まずさを感じているのだろう。
そんな時、私の名を呼ぶ声が聞こえた。
「エアリ!」
声を聞き、周囲を見回す。
すると、村の方から走ってくる人影が視界に入った。
「エアリなのか!」
ギクッ。
……父親の声だ。
恐らく、買い物に出ていったっきり夜まで帰らない娘を心配して、探し回っていたのだろう。
「エアリ!!」
「……父さん」
ようやく、父親からも私の姿が見えたみたいだ。父親の走る速度が、急激に速まる。
私は父親を見て、一瞬は嬉しかった。しかし、この後叱られるのだということをすぐに思い出して、複雑な心境になった。
やや肥満体型の父親は、全力で駆け寄ってくる。
体型のわりには速い走り。
その頬には、涙の粒の跡。かなり心配してくれていたようだ。
「無事か、エアリ!」
あれ?
思っていた反応と違う。
「遅くなってごめんなさい、父さん」
「無事で良かったァ!!」
父親は、駆けてきた勢いのまま、私の体を抱き締める。
しかし、すぐに両腕を離した。
「……いや、違った」
こほん、と咳払いをして。
「エアリ! 夜まで外をうろついて、どういうつもりだ!」
「えぇ?」
父親は基本的には厳しい人だ。それゆえ、「夜まで外をうろついて、どういうつもりだ!」と言った父親の方が父親らしいと言える。
が、今日の父親は、一度は厳しくない対応を取ったのだ。
厳しくされることには慣れているが、どうせなら厳しくない方がありがたい。私としては、その方が助かるのだが。
「しかも」
父親は一度、じろりと、少年へ目をやる。それから視線を私へ戻し、言い放つ。
「男連れとはどういうことだ!」
「待って待って! 話を聞いて!」
少年に殴りかかりそうな勢いの父親を、私は慌てて制止する。
「……なに」
眉間にしわを寄せる父親。
いきなり敵襲が、なんて、まるで小説のようで少し言いにくい。けれど、ここで私がきちんと説明しなければ、少年にまで迷惑がかかってしまう。特に罪のない少年が罪人のような扱いを受けることがあってはならない。
だから、言いづらくとも言わなくては。
「事情があるのよ!」
「事情、だと?」
「そう! 彼は森の中で気を失っていたの。それで、私の方から声をかけたのよ。そうしたら、いきなり得体の知れないやつに襲われて……」
父親の眉間のしわが、さらに深くなる。
「襲われただとォ!?」
「そうなの。それで、逃げてきたのよ」
それでも父親は、よく分からない、というような顔をしている。
無理もない。いきなり「襲われた」なんて聞かされても、すぐに理解できるわけがないのだ。もし私が父親の立場であったなら、今の父親と同じ顔をしたことだろう。
「あ、そうだ。彼ね、不調があるみたいなの」
ふと思い出し、述べる。
「エアリ、一体何を?」
父親が返してくるより早く、少年が問いかけてきた。
「あの時、何だか辛そうにしていたでしょう?」
「……どうか、そのようなことは気になさらないで下さい」
少年は私を見つめ、小さく首を左右に動かす。どうやら、私たちに世話になる気はないようである。
「駄目よ! 早期発見早期治療が大切なの!」
「いえ、しかしそこまでお世話になるわけには……」
「いいからいいから」
私は彼に歩み寄り、その細い肩に手を乗せる。そして、そのまま首から上を父親の方へと向けた。そんな私を、父親は、眉間にしわを寄せたままじっと見つめている。
「父さん、お願い。今夜、彼をうちに泊めてあげて」
少年の正体は分からない。だから、どこに住んでいるのかも分からない。ただ、手負いの状態で今から帰宅するというのは無理があるだろう。怪しい人ではなさそうだし、一夜泊めるくらいなら問題ないはずだ。
「いいでしょ?」
「まったく……しかたないな」
お、いい感じ?
「今日だけだぞ」
やった!
「いいの!?」
「不調があるなら仕方ない。今夜だけは認めよう」
「ありがとう、父さん!」
こんなにもすんなりいくとは思わなかった。正直意外だ。まさか、という感じである。
「じゃ、早速行きましょ! えーと……」
「リゴール・ホワイトスター」
「え?」
「わたくしの名です」
手を差し伸べてはみたものの名前が分からず困っていた私に、少年はさらりと名乗ってくれた——のだが、聞き逃してしまった。
「……リンゴリラ?」
「リゴールです」
「そう! リコール!」
「違います、リゴールです」
何度か言ってもらい、ようやく正しく聞き取ることができた。
「リゴールね!」
「はい」
「じゃ、一緒に来て!」